平日、仕事が終わって食卓に座り、恋人と話すことといえばほとんどが仕事の愚痴になる。
お互いの料理の出来具合について総評したのち(おおむね好評である)、今日どれだけ嫌なことがあったか、恋人は話す。
私は聞きながら、半分くらい聞き流しながら、黙々と食事をする。
恋人の箸は止まり、どんどんヒートアップしていき、声は大きく、速度は速くなっていく。
この間は口にものを入れたままモゴモゴ喋り続けていたので、さすがに注意した。ものを飲み込んでから喋りなさい、と。恋人はふてくされていた。
よくもまぁこんなに喋れるものだと感心する。
恋人の話とはいえ、愚痴のすべて受け止める度量は私には無いので、ほうほうと頷きながら、半分は聞き流す。いわば私はサンドバッグのようなものなのだ。愚痴をぶつけられるサンドバッグ。
ぜんぶ受け止めると恋人以上に私の心が荒んで、愚痴の対象相手を殺したくなるので、心の消耗を押さえるためにも半分しか聞かないことにしている。
相談なら聞くけど、愚痴は愚痴だ。
愚痴にオチはない。
終わったかなと思うタイミングで「それは大変だったね」とか「酷い話だ」などと感想を述べ、私は食器を片付け、恋人は残りを食べる。彼女はずっと喋っていたから必然、私の方が先に食事を終えるのだ。
ここで感想を間違えると恋人の気を害すことになる。
これは相談ではなく愚痴なのだから、なんのアドヴァイスも意見もいらないし、私の経験からの似たような話をする必要もない。
「そいつ、殺した方がいいね」とか「生きる価値なし」とか「客も客なら同僚も同僚だな。お里が知れる」「全員馬鹿で屑。産道からやりなおせ」などと辛辣な感想を述べてもいけない。
恋人のものだったはずの感情を私が飲み込んでしまって、自分までそういった拒絶的な感情を抱いていると錯覚させてしまい、恋人だけが抱いていた感情を潰してしまって「そこまで言わなくても……」と恋人に言わせしめることになるからだ。
食器を洗いながらも恋人は愚痴を続ける。
私が洗い、恋人が拭く。私が排水溝の掃除をしている間、恋人はコンロを拭きながら愚痴る。
いいかげんうんざりもしてくるが、それ以上に、平日に話すことが愚痴しかないのも悲しいことだな、とおもう。
かと言って私には何か喋りたいことがあるのかというと、はたして、無い。
なにも面白いことなんてないし、愚痴りたいことや嫌なことも多いけど、そうして喋ると嫌な感情を思い出すだけでなにもすっきりしないのだ。すっきりするためには仕事を着実にこなすか、独り酒を飲んで酩酊のまま眠るしかないとおもっている。
ときどき私だって愚痴をするけど、愚痴ってもなにもどうにもならなくて、ただ虚しさとどこからか恥ずかしさのようなものが込み上げてくるばかりだ。
悲しい生き物だ。私も恋人も。
もっと楽しいことや新鮮なことや、ためになったことが一日にひとつくらいあってもいいはずだ。
それとも楽しいことがひとつくらいあったのかもしれないけれど、さらに大きな負の感情に圧し潰されて見えなくなっているのかもしれない。
負の感情はいつだって鮮烈なのに、幸せは幸せであるほど目に見えなくなり声にも聞こえなくなり温かみも失われ色彩を欠いていく。
そして失ってからそれが幸せだったと気付くのだ。
幸せを取り逃さないことは難しい。簡単に壊れて消えてしまう。
ひとまず恋人と食事が毎日できることは幸せであるということは忘れちゃならない。愚痴だって、それで彼女がすっきりするのならそれでいいのだ(どうせ半分は聞いていないし)。