恥ずかしながら、『トム・ソーヤーの冒険』を24年生きていて一度も読んだことがなかった。
(毛布にくるまれているトム・ソーヤーの冒険)
漠然と「塀にペンキを塗る話」とは知っていたけど、実際に読んでみたらペンキじゃなくて漆喰(しっくい)だったし、それは冒頭に語られるトム少年の特性を示すひとつのエピソードにすぎなかった。
そして、塀に漆喰を塗るだけの話が「冒険」なわけないのだ。
どうして今になってわざわざトム・ソーヤーを読んだのかというと、後続の『ハックルベリー・フィンの冒険』を読むためである。
本当かどうか知らないけど『ハックルベリー・フィンの冒険』はアメリカ文学の傑作と評され、今なお多くの論争と評論を巻き起こしているのだ。
そのためには1作目の『トム・ソーヤー』から読むべきだろう。
だいたい、トム・ソーヤーくらい読んでないと恥だ。義務教育も終えてないのか、と心の中の「先生」に叱られる。
35歳になってから読むよりか24歳で読んだ方がいいに決まってる。
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私はその風景をよく知っている。
なんか、ディズニーとかワーナーのカートゥーンで幼いころに見たことがある風景なのだ。
やたらと乾燥していて日照りがきつく、瞳が焼け付くほどの濃い光が真っ直ぐに刺さってくる。だけど木陰に入れば涼しい風を感じることができて、そこに座りながら川に釣り糸を垂らしてブルーギルが釣れるのを煙草を噛みながら待ち過ごす。ポケットには25セント入ってる。それから抜けた奥歯とネズミの尻尾。おれはそれだけで裕福だった。
なんか、そんな感じの風景がアニメの絵柄で脳内に立ち現れる。
経験したこともないのに、知っているかのようにその風景が・匂いが・熱が思い出されるのは、つぶさで素直で誠実な描写のたまものだろう。
トム少年やハックの機転や失敗も面白いのだけど、この小説で面白いのはこうした描写だ。
妙にリアリティがあって感心する。すごいと思う。
小学生女子のおませで生意気なところとか、ちょっと面倒くさいところとか、男子には一生わからない感情の機微なんてまさに私が小学生の頃感じたままのことが書いてあって、なんだ200年前からこんなんだったのかと笑ってしまった。たぶん200年後も男子は女子のことがよくわからないままだろう。
もちろん、男子の救いがたく愚かで愛しいおバカさも活き活きと描写されている。
ほかには子どもから見た大人たちの愚かしさとか、大胆な癖にちょっと信心深かったりオバケが怖かったりするところや、水の冷たさや暗闇の恐ろしさが的確な言葉で選び抜かれている、そういった感想を抱いた。これは訳者(柴田元幸さん)の力でもある。
200年前のアメリカの田舎の話なのに、あ~懐かしいな~そうなんだよな~ってなんか風景に郷愁を抱いたり、トムたちの葛藤や恐怖や楽しさにシンパシーを覚えてしまう。
たぶん、深層心理の、自分でも知らない「自分」を深く共感させる物語なのだと思う。
なんの言及もしていない作品で、テーマをあげるなら「少年」としか言えないような物語なのだけど、そこに毒がなくていい。
物語に浸るだけで、とくになにも考えなくていいのだ。
こんな時代だからこそ、そういう楽しみがあってもいいんじゃないか。
子どもの頃本を読んでワクワクしたときの、あの心地を思い出せる一冊であると思う。
あと、個人的に面白かったのは、ハックを保護したミセス・ワトソンがずっと「未亡人」て呼ばれ続けること。