蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

誰かを救いたくて、誰も救えなくて。

にも書いただろうけど、「傷ついた人を元気にするために音楽をやっています!」とか「同じように苦しんでいる人を救いたくて詩を書いています!」と言う人間を信用していない。

なぜなら、傷ついた人を元気にするためなら、音楽を聴かせるよりも医療を提供した方がいいし、お金をあげたほうがいい。まどろっこしいことをせずに直接サービスを与えた方が誠実だろう。

苦しんでいる人を救いたいなら、詩を書いてやるよりも金一封の方がより実際的だ。

そういう点では、前澤社長のお金配りはある意味誠実な救済行為なのかもしれない。

 

芸術による救済は、作り手の意志によるものではなく、受け取り手の感受性によるものだ。

芸術作品は、その存在があるようにしかあらない。

私たちは広大な海を眺めたり、深い山の緑を見たり、沈む黄昏を眺めても、心安らぐことがある。星空を見て、勇気を貰うこともある。一面の菜の花を見て涙ぐむことさえあるかもしれない。

自然の風景に意図はない。

私たちの感受性が受け取りたいように景色を受け取り、パワーを得るのだ。

芸術作品もそれと同じだ。

東山魁夷の風景画を見て神秘的な気分になるし、ショパンノクターンを聴いて恋をしたような気分になるし、なにを言っているのか全くわからない洋楽を聴いて元気が出る。人が悲しみなにかを失ったり悩んだりする小説を読んで心救われるのはなぜだろう。

だからなんていうか、「元気にしてやろう」という意図をもって作られた作品は押しつけがましくて、苦手だ。受け取りたいように受け取れなくて狭苦しい気分がする。

おめーにおれのなにがわかるんだ、と言いたくなる。私は性格が悪いのかもしれない。

いや、作品に向き合う姿勢が人によって違うだけだ。

 

 

しかしながら、最近おもう。

期間限定的ではなくて、作品制作初期から「誰かを元気にしたい」と思い続けて制作をする人は、もしその意志を曲げずに続けられたなら、回りくどくて押しつけがましくはあるけれど、たぶんいい奴だ。

「そういうの」は好きではないけれど、そういう心意気みたいなものは、なんだか尊いな、とおもう。

それが芸術と呼べるかは別として。

それが好きかは別として。