蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

愛されていると気付ける才能

きれば人々を愛したい。すべての人に愛を見出したい。優しくありたい。

そう思ってしまうのも一種の傲慢かもしれない。

「おれはお前に愛してほしいなんて一言も頼んでない」って本音だ。

すべての人を愛すなんて神さまだけに赦される傲慢さで、神さまは自分で自分をお赦しになるばかりで、人間には戒めばかり与えるずるい人だ。

神さまが身を亡ぼすとすればその傲慢さによってだろう。

そして神さまを象って作られた人間はその傲慢さがよく似ている。

 

愛することは才能によるところもあるだろうけど、そんなに難しいことでもない。

「好き」が極まれば「愛」に変わるので、人間にはそもそも「愛する」素質が誰しも備わっているものだ。

ただし、愛でさえも永久ではないから、たとえ一瞬抱いた強い気持ちであってもそれは愛かもしれないし、まったく違うものかもしれない。

愛することよりも、愛されていると気付けることの方が才能だろう。

なぜなら愛情というものは目に見えてわかるものではなく、多くの場合はさりげなくて、言葉の主体にあるものではなく言葉の端々や陰に潜んでいるエッセンスであったり、無意識の行動から生まれるなにげない思いやりだったりして、ひじょうにわかりにくいからだ。

あるいは「怒られる」ことも愛の一部で(ものによるが)あるけれど、わかりにくく、時には傷ついてしまうこともあるだろう。

こういった「愛情」にはあとから気付くものだ。

「ああ、あれは僕を想ってのことだったんだ」と手遅れなくらい後になってわかることもある。

怒られながら「愛されてるなぁ」と感動するのもどうかしているので、後から気付くというのは自然なことで、ひとつの誠実さでもあるとおもう。

 

そして、愛されていないと、愛されていると気付けないと、本当の意味で誰かを愛することなんてできない。

 

 

愛なんて言葉で片付けたくないな。いろいろなこと。

愛、って書きすぎると言葉の価値が下がっていくらしい。

大切にしたい言葉のひとつだ。