正月明け。
私は労働をしながら、そのすべてに腹を立てていた。
「労働」という概念そのものに、理不尽とおもった。
すべてを破壊しなきゃいけない……生命(みんな)のために……と義憤に駆られる瞬間もあった。
こんなにツライ思いをするくらいならいっそ、連休なんて無い方がよかったんだ。一度甘い蜜(連休)の味を覚えてしまうとただの樹液(土日休み)では物足らなくなるんだ。長く体と頭を休めたことで全体的に弛緩して鈍くなって、平日がより一層きつくなるんだ。
お休みなんて幻だったんだ。
こうなるくらいなら連休なんて無い方がいいんだ。
と一度は思ったものの、ちょっとまてよ、と考えて、やっぱり連休はあった方が良くて、いけないのは毎週連休じゃないことだと気付き、結論した。
毎週三連休以上にすべきだ。太陽太陰暦が諸悪の根源だ。
私は、なにかひどい勘違いをしていた。
年を収めて正月休みに入ったら、もう二度と働かなくてよくて、ずっと穏やかな日々が続き、豊かな気持ちを享受できるものとばかりおもっていた。
しかしどうやら違ったみたいだ。
私はあと数十年、下手したら一生働き続けなければならず、こんな連休は長い人生のうちのほんの小指の甘皮の先ほどの些末な休日なのであって、だましだまし仕事から離れられるだけの数日間に過ぎないのだ。
私は激怒した。
理不尽、とおもった。
必ずすべてを破壊しなければならないとおもった。
エヴァンゲリオンくらいに巨大化して千代田区でブレイクダンスを踊り続けなければならない。
生命(みんな)を助けるために……。
しかし、そんなことを言っていてもしょうがない。
資本主義に生きる貨幣の家畜として、私は現実的に生きなければならず、そのためには金を稼ぐしかなく、夢も努力もない凡人としては会社へ行き、つまらない仕事の積み重ねによって人生を構築するしかないのだ。
泣きたくなるけど仕方がない。
それが人生、私の人生、悲しい人生、泣きたい人生♪ って「Bad Guy」の替え歌、道化を演じてくへら、くへら、咳するみたいに歌いながら裏路地。凍った水たまりに映る引き攣った顔の醜さに笑いがこみ上げてきちゃうんだ。これで少しはマシな顔になった。くわつはつはつ。
……いンや、私はなにも人生をぜんぶ諦めたわけじゃない。だけどサ、、、
だけどサ、今は仕方がないじゃんか。ピーピー言ってもはじまらないじゃんかサ、、、
無力。
あまりにも。
情けなく、そして悔しかった。
せめてもの救いはこうして悔しいと思えるくらい自分はまだ若いのだということだけだった。
────────
そのようにして全部にムカついた私は、先週の水曜日くらいに、そうだ、週末は、ギョーザを作りまくって食べまくろう、と決意した。
頭がおかしくなってしまったんである。
魂を救済するには、しかしそれしか方法は無いように思えたのだ。
恋人と対面で座って、一枚一枚餡をくるんで一気に焼くのだ。その動作の一つ一つに安寧への祈りがこもり、焦燥と窮屈と辟易を打開するパワーが漲るものと私は考えた。
これは理屈ではない。頭で理解するのではなく、心で了解するものだ。
私の意志は固かった。
「週末はギョーザを作るから覚悟して」
恋人には思いついたその日のうちに宣言しておいた。恋人もこれには了承してくれた。
「週末、豚ひき肉とギョーザの皮が割引になるみたい」
恋人が電子チラシを見て言った。
まさに週末は、ギョーザを作るために存在していた。
怒濤の勢いで餡をこね、皮で包んでいった。
フライパンに敷き詰める。このとき、危機感を感じるくらい敷き詰めるのが良いとされる。
そんで、わーっと焼けば完成だよこんちくしょう。
まぁまぁ手間がかかるけどコスパがいいし、50個ちかく作ったので今週平日はもっぱらギョーザを食べることになりそうだ。
だけど、めちゃくちゃ美味しかったからぜんぜん良い。食べ過ぎて軽く体調を崩したくらいだ。
ギョーザを作り食べることでたしかになんらかのストレスが発散され気持ちよく週末を終えることができた。
あの一個一個には私の怨念と、そして祈りがこもっているのだ。
それを羽根がつくまで焼き尽くし、昇華(消化)したということか。
何言ってんだか。