蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

フリクリ・フリクラ

『チェンソーマン』の藤本タツキ先生が自作に対して「(チェンソーマンは)ダークなフリクリ(を目指している)」と言っていた、ような情報をインターネットの渦潮の中で目撃してから、ずっと『フリクリ』が気になっていた。

というかその前からずっと気になってはいたのだけどいかんせん視聴に踏み切れなかったのは、みんなも20代半ばになればわかるが「アニメを見始める」のは新しい恋をはじめるくらいエネルギーが必要なことで、そこそこに重い腰をあげなきゃいけないその体力とか気力を振り絞らねばならず、はっきり言ってその労力に見合った内容のものでなければ割に合わない、そういった損得勘定が働いてしまって、必要以上の覚悟と契機がなければ見はじめられない、そんな悲しい生き物になってしまったからだ。

でも良質なアニメを見ると極限まですり減らされた気力がムクムクと力を漲らせてクるんだから不思議なもんだ。

フリクリ』(2000年)もそういうアニメだった。

 

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冒頭の、女の子がリッケンバッカー(エレキベース)で主人公の少年をぶん殴るところから最高だったね。

リッケンバッカー」であることが大事だと思った。正味楽器で殴るならアコギのほうがわかりやすいのだけど(ローマの休日でもそうだったし)、ここでただのエレキベースとかありきたりなエレキギター(たとえばストラトキャスターとかよくみるかたちのやつ)やアコギではなく「リッケンバッカー」なのがこだわりを感じたし、なにかここにこの作品の執念というか、存在意義というか、なぜ作ったかとか、文脈があるような気がした。

 

実はリッケンバッカーで戦いたいと思ってたんだ、おれも。

 

「どういうアニメなの?」と訊かれても一言で返すのは難しい。

「一人の男の子が性に目覚めながら一人の女の子に愛を打ち明けるお話」という説明はフリクリを一割も説明できていない。

「巨大な総合病院みたいな秘密結社的なものがあって、主人公はその町に住む小学六年生の少年で──」と説明していってもなぜか「ありきたり」の枠を出てこない。

「宇宙人のハル子に頭をリッケンバッカーで殴られるとそのコブが膨らんでロボットになったり猫耳になったりなんか巨大な生命体みたいなものになって町を破壊したり町を救ったり放火魔を暴いたりする」悪い夢みたいだ。

 

このアニメには魅力的な要素が多すぎて一言で説明するのは難しいし、魅力的だから説明が難しいのかもわからない。

フリクリフリクリだよ」としか言いようがない。

めちゃくちゃなように見えるけど実は言語化が難しい一貫したあるものが物語を貫いている。その感覚だけがわかる。

ストーリーはわけがわからないし(説明に困るし)、会話も噛み合っているような噛み合っていないようなかんじで困惑するし、説明不足は終始一貫している。論理的な解説は可能かもしれないけれど、はたしてそれで納得がいくアニメかというと、そうではない。

でもそれでも、ストーリーを十全に理解できていなくても面白く思えるのは、アニメーションそのものの表現としての面白さだったり、作った人たちが楽しんでやっていることが伝わるかんじだったり、最高のタイミングでかかるpillowsのおかげだったり、ひじょうに巧みに設置された日常や心理表現の共感性のおかげなのだと思う。

そういうアニメって最高だ。

小説だったら内容以前に文章が格好良いとか美しいという面白さがあり、絵画だったらテーマ以前に技巧や色遣いに感嘆したり、漫画だったらその作者にしか引けない線やコマ割りに驚かされるように、アニメにだってアニメーション(絵)として素晴らしくてそれがあって話を引っ張っていく部分がある。

私にとっては『AKIRA』とか『パプリカ』とかがそれにあたる。(そんなに多くのアニメを見たわけじゃないからそれくらいしかパッと出てこない)

フリクリ』もその一つだ。

 

わかるひとにはわかるし、わからないひとにはわからない。そういうアニメだ。

私は『フリクリ』を面白いと思える側の人間で良かったと、最後のpilllowsを聴きながら思った。やたら沁みるんだよな、pillows。

フリクリ』はクセになるのでこれから他のアニメを見ても「なんか物足りないな」と思いかねないんじゃないかとヒヤヒヤしている。