蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

あまりにも小さくて頼りなく、かけがえのない、幸せ。

たちの存在はなんて小さいものなのだろうと、星空や海を見て物思いにふけったことは誰しもあるだろう。

この宇宙に、もしも、地球以外に生命体の存在する星がひとつも無かったとしたら、私たちはなんて孤独で頼りない存在なのだろう。

燦然と輝く星々の数を数えきれないほどに小さい私たちの、リビングの、LED電球ひとつの灯りなんて、どこにも届きはしないし誰かの胸を打たないし、ただただ私たちの食卓を何も言わずに照らしてくれているだけの存在で、さらに私たちはその灯りさえも失えば不幸に陥ってしまうほど弱い いきものなのだ。

そんな頼りなく小さな存在である私にも、妻がいて、家族がいる。

仕事の合間にふと昨晩の会話を思い出したりする。

妻のなにげない一言やリビングの情景を思い浮かべる。

夜のなかで私たちのいる空間だけにLEDライトが光っていてそこで二人の生命体が存在し、話したり、笑ったり、スマホをいじったり、いっしょにアニメを見たりする。

仕事の合間に、幸せだな、と思う。

でもこういった種類の幸せって思い出したときにだけ感じられる程のあまりにも小さいもので、また仕事に戻れば忘れてしまいそうなほど儚い。きっと小説とか映画にしたら描かれない部分の幸せなのだ。

私たちの、あまりにも小さくて頼りなく、かけがえのない、幸せ。

それを思うとこの胸がたしかに温かみを帯び、私と妻のささやかな幸せが、それに喜ぶ私たちの存在が、たまらなく愛おしい。

 

「どうせ歳をとったら、あの頃は良かったとか、若い頃は幸せだったなんて言うんだろうな」

妻が言う。

たしかにそうかもしれない。

私たちは情けなく懐古して現在を蔑ろにし続ける生き物だから。

でも、昔は良かった、と過去の幸せを感じられるのならそれはそれでいいと思う。

だって、思い出している間たしかにそこに「幸せ」があるのだから。

思い出せるほどの幸せがあれば最期はなにもいらない。

 

あとから思い出して幸せだと感じられる情景をその現在に「幸せだよなこれが」と思おうとするとなんとなく違くて、幸せだとしみじみ思えないのは、幸せとは思うものではなく感じるものであるからだろう。

感じると言っても知覚できるものというわけではなくて、なんていうか、言葉にできない状態に浸されている、肉体ではなく精神の部分で。

うまく言葉にできないのだけど、現在進行形の幸せは手に取ることができない、触れようとすれば溶ける雪の結晶みたいなもので、雪が溶けたあとも冷たさが手のひらに残るように、私たちはその余韻からしか幸せを感じとることはできないのかもしれない。

 

たまらなく愛おしい幸せを、死ぬ前に妻と二人で笑って思い出せればそれが、人生の素晴らしいゴールになるだろうな。