蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

球体の奏でる音楽

はこの表題の小沢健二のアルバムを聴いたことがないわけだが、名前だけは知っていて、機会があれば必ず聴いてみたいと思っているのはさておき、この言葉を思い出すのはいつも、ものすごい太っちょを見たときだ。

大なり小なり太っている人はたくさんいるし、私も最近マジで腹回りの肉つきがやばくてちょっと笑い事じゃなくてしかも二重顎とかできてきてんだけど、そういうちょっとした太っちょは一旦よしとして、たとえば電車で座席をふた席分占領するような太っちょは概して体型が球体である。

球体の奏でる音楽、という詩的な言葉を思い出すには最悪のきっかけだと思う。

球体になった太っちょの具体例としては魔人ブウだ。遠目に見ると全体的にマスコットのようなシルエットでどこか歩き方も愛らしい(私はどちらかというと忌避ではなく、好感をもって球体の太っちょを迎えている)。

足は太いなんてもんじゃない。ちょっとした材木だ。スニーカーがアイロンみたいなフォルムになるほど膨らんでいて、ふと疑問が湧く。いったいどこで買うのだろう。靴だけじゃない、そのズボンも、パーカーも、なにもかも。

体に関節らしきものは見当たらず、折れ曲がってるから関節なんだと判別できるが、まっすぐ立たれたらもうおしまいだ。

どれだけの質量を蓄えているのかわからないが、とにかくそう、質量の人、という感じがする。

そんな太っちょが電車で座席をふたつ分使い、在来線で高速移動しているのがもう面白い。

質量と、その移動。

ざっくり言えばそういうことになる(誰だってそうだ)。

こうはなりたくないものだなと自分を戒めもするけど、こうなるには相応の努力と才能が必要そうだと不確かな安心感も覚える。骨格にしても筋肉にしても、細胞にしても、才能がいる。

だからって油断はできない。可能性はゼロじゃないし、今のこのだらしないお腹周りは球体化の第一歩かもしれないのだ。

 

小沢健二がどういう意図で「球体の奏でる音楽」なんて名前をつけたのかは知らないけど、たとえばものすごく太ったトランペット吹きを見て思いついたのだとしたら、かなり悪い男だ。

でもとにかく、その言葉のおかげで私は太っちょが歌っているところを是非とも目にしたいと思っている。

そんな感情がこの世界にあるなんて。やはり詩的な言葉だ。その言葉でしか抱かない感情を与えてくれる。

 

太っちょのことは結構好きだから友だちになってほしいし、たくさん食べているところを見せてほしいしなんなら一緒に食べに行きたいのだけど、それはそれとして、空間を人よりも余分に占領しているなんて非道な理由で税金をとられてもおかしくないと思う。

肥満税。

我ながら酷いことを考える。やっぱりこの国は最低だ。政府が悪い。荒んだ世界だ。

こんな荒野にも、音楽は流れるのかい?

そう、どこにでも。