言葉というものについて考えていくと「卵が先か?ニワトリが先か?」に似た問題に直面する。
普通に考えて、たとえば石という「物」が先にあって、その物体を指し示すために、"石"という「言葉」が生まれたのだろうことはわかる。
それじゃあ、"石"と名づけられるまでその物体はなんと呼ばれていたのだろうか?
"石"以外の名前(たとえばケココとかヌールとか)だったとしても、ケココと呼ばれる前はケココをどう認識していたのだろうか?
アレとかソレとか代名詞すらもなかったら?
そうなってくると、もはや「物」よりも「言葉」が先にあったのではないかとすら思えてくる。そんなことはあり得ないにしても。
言葉で認識する世界に生きていると、言葉のない世界がどういうものかわからない。すごく高次元で、イデア的な世界だ。漠然としていて、かつ、具体性でしかない。
そんな世界から言語を獲得していく赤ちゃんって実は物凄いのかもしれない。
聖書に「はじめに言葉ありき」と書かれているのは納得だ。言葉がなければテキストの世界を記述ができないから、まずは言葉がなきゃいけない。
じゃあ、言葉を作ったのは誰なんだよ。という問題がある。
ハエみたいに自然発生かよ。
聖書では、言葉=神 とされていて、すなわち根源的なものだという。
聖書を書いた人も、これから聖典を書くにあたっては言葉の問題を解決する必要があったと見える。すべてを創造した神は言葉も創造したのか?一体どのようにして?言葉があって神があるのか、神があって言葉があるのか。
その解決として、言葉=神 になったのかもしれない。
言葉というものを"言葉"として認識した人もすごい。
「おれたちがさぁ、喋ってるこれあんじゃん」
「これ?」
「ほら、なんかこう、いろいろ伝えるために喋ってる、これだよ」
「ああ……なんか、喋ってるね。喋れてるね」
「これさぁ、なんて名前なんだろ」
↑こいつ天才か?
言葉を喋っていて、この伝達手段の存在そのものという高次な、目に見えない概念に気づけるか?私だったらなんも思わず漫然と言葉を使っていただろうな。なんか喋ってるな、とすら思わないきっと。
「そうなぁ、名前なぁ……。"言葉"なんてどうかな?」
↑すごすぎ。
"言葉"という言葉を初めに言ったのは誰だろう。
『古今和歌集』の仮名序で紀貫之が「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」と綴っていて、そのあたりがはじまりだと思うけど、それにしても「言の葉」って表現は詩的で秀逸だ。これ、パッと会話のなかで出てきたとしたらすごすぎる。
なんかこういう瞬発力ある人ってめっちゃ頭良く見える。会社とか。
すごい人、多っ。