蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

天体観測の車窓から

りの電車に、両手にぱつぱつの荷物を提げた、これまたぱつぱつのおばさんが乗ってきた。

両隣の座席に荷物をがさりと置き、おばさんは私の前の座席に座った。

おばさんひとりで3席占領していることになるが、おばさん自体の体積が、なんというかひじょうに、膨大だったので、実質、4席から少なくとも3.5席は確実に、独りで我が物としていた。

昨今のマナーに厳しいご時世において堂々たるものだ。

あるいはそうやって占領し人との距離を取ることでソーシャル・ディスタンスを図ったのかもしれないが、おそらくそんなことはなく、なんにせよ、器用な人ではなさそうだ。

 

 

別に肥っている人を肥っているということで非難するつもりはないし、肥満が人格形成に影響を及ぼしているとは言い切れないけど、このおばさんの体型を見ればいかにもガサツそうで傍若無人で、あるいは金太郎的な堂々たるものであるとおもうことだろう。そして実際、座り方を見ればそうであることがわかる。

 

肥り方にもいろいろある。

肉が垂れていまにも流れ出しそうな者、腹だけ出て餓鬼のようになってる者、全身まんべんなく肉がついてむしろ逞しい者。肥り方人それぞれであるが、おばさんの場合、張り詰めた肥り方をしていて、まるで天体であった。

丸いのだ。極限まで。

ピクサーのふざけたキャラクター造形みたいに丸かった。押せば転がりそうだし、引けば圧し潰されそうだ。

あまりにも丸いから、どちらが下でどちらが上かわかりやすいようにそれぞれに足と頭をつけたのだろう。地球の上と下に北極と南極があるように。

なるほど、そういうわけか。天体じみて見えるわけだ。さながら今の私は天体観測していると言える。

私はおばさんに、極(ごく)、と名付けた。

 

 

極はフリーペーパーを読んでいた。

駅の改札のそばに置いてある、地域情報を紹介している薄い雑誌だ。

こういうのはあまり読む人がいないので、だいたい月初に新刊が並べられると月末までほとんんど減ることが無く、ずっと表の風雨と人混みに曝されてきた紙は色褪せて侘しさを醸すものだ。こうやってワビサビを生み出すための装置なのだ。

 

極は食い入るように、念入りにページを読んでいた。

極なりに気になることが書いてあったのだろう。そもそも何が書いてある雑誌なのか不明だが、間違いなく解析関数の方法論は書いてないし、ローザルクセンブルクのことも書いてなさそうだ。らくだの生態についても書いてない。

真剣な目をしてページを見つめていた極であったが、次の駅に到着すると、雑誌を座席に放り、荷物を持って、流星が消える如く降車して去ってしまった。

いきなりのことであった。

あれだけ熱心に読んでいたのに、突如として興味を失い、しかも雑誌を持ち帰らずに座席に捨て、その場を去ったのだ。

情報は必要十分だったのだろうか。あるいは、極としても興味のないことだったのか。

その行動のどこにも隠れてコソコソしているところがなく、自分の行動に疑いを抱かず、堂々としていた。

 

 

それが悪いとか善いということをここで言いたいのではなく、ただそういう人がいたことと、むしろ私には極が格好良く映ったということを言いたい。

善悪はともかくとして、堂々と自分の道に疑いを持たず歩いているさまは格好良い。

悪いことを悪いことだと思わずにやる人に罪の意識はない。

それと同じように、善いことを善いことと思わずに、当然の親切としてやっていけたらもっと格好良い。

だけどどちらにせよ自分ではそれは認識できなくて、自分は自分でしかいられないということに気付いた。

自分らしく、という言葉はきらいだ。自分らしさなんて誰かが決めるものではないし、自分が決めるものでもない。自分は自分でしかなく、本当の自分は「らしさ」なんかで規定される飾り気のあるものではない。

極は極であり、私は私であり、君は君であれ。