金曜日に会議があって、そこで私は午前4時までかかって作成した企画のプレゼンをした。
今回、企画資料を作成するのも、そもそも企画を考えるのもまったく初めてで、先輩方のこれまでの会議の様子や資料をもとにして自分なりに企画を作り上げたのだが、これが自分ではぜんぜん、素人まがいのハリボテみたいなものだと思っていたし、会議でボコボコにされるのは目に見えていたので、先輩方の胸を借りるつもりで、勉強させてもらうつもりだった。
しかし、会議が始まるや開口一番に上司が「君の資料は、初めてにしてはほんとうによくできてる。企画内容も良いよ」と言ってくれた。
「わたしが最初のときなんて、もうぜんぜんこんな形になってなかったよ」他の先輩も頷いた。
私は「いや、もう、とりあえず形だけでもそれっぽく見せればそれっぽくなると思って作った資料なので、今日皆さんのご意見をいただいて勉強になればと……」恐縮したら、上司は
「いや、形にするのがそもそも難しんだよ」とにこやかに言った。
嬉しかった。
嬉しかったが、自分では自分のことをまったく認めていないので、安心感とかやったぞ感はほとんど無くて、むしろ悩ましささえも覚えた。
先日も取引先の方から褒められる機会があったのだけど、それも心に響かなくて単なる言葉として受け流してしまった。
褒められたとき、恐縮しつつも「ありがとうございます」とは言うようにしているけど、なにがありがとうなのかもよくわかっていないで口にしている。
褒められたことよりも、その日のできなかったこととか、自分の未熟な点や課題ばかりが反芻されて、小さな嬉しさが即座に圧し潰される。
自分では自分に低い点数を付けているから、人からどう褒められても嘘だと思ってしまう。逆にきつい言葉は自分の中にまで染み込んでいくのは、自分が自分をそう思っていて言葉と心の歯車がかみ合ってしまうからなのだろう。
自己肯定感が、欠如している。
自己肯定感が欠如しているから、褒められても心に染みてこない。
自分の思っていることと他人の評価にずれがあって、賞賛を認められない。
人からの批判を認められなくて怒り出す人がいるけど、それも同じことで自分自身への評価と他人の評価のずれによる不一致が「認められない」状態を生み出しているのだろう。私はそれの「褒め」バージョンにいる。
このままだと私は幸せになんかなれない。一生。自分が自分である限り。
なにごとももっと全力で、限界までやったほうが良いのかもしれない。どこかで自分を誤魔化して生きているから、そいつをぶっ飛ばさなきゃいけない。
自分で納得のいくものができた試しなんて一度もない。テストで100点をとっても(そんな経験は片手で数えられる程しかないが)、これが120点満点だったら満点には及ばないとずっと思って生きていて、そういう不足感を払拭せねばならない。
幸せになんてなれない。自己肯定感を伸ばさなければならない。
でも一体、どうやって。
どうやって私は自分を救えるのだろう……。2週間考えて朝の4時まで作ってた企画が褒められても心に響かなかった私が、私を、いったいどうやって……。
そんなことを考えて、わりと良いことがあったはずの金曜日なのに鬱々として帰宅した。
妻にそんなことを話したら、頷きながらずっと聞いてくれた。
そして最後にこう言った。
「でもわたしは、あなたが人から褒められていて嬉しいよ」
その一言が、私を救った。