蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

自分が正しいと思える行為

掃除をした。

普段は手の届かない(手を伸ばそうともしない)箇所にまで掃除を敢行する。それが大掃除。

いつものトイレ掃除や風呂掃除も、丁寧に、細かいところまで時間をかけて掃除をする。

やれやれ。

はっきり言って、クソ面倒臭い。

ぶっちゃけ家なんて使い捨てにして、新年から他の住居に移り住みたい。汚れたら捨てるのがこの消費社会の正義だろうが。汚れたものは捨てましょう。いらないものは売りましょう。自分が大金持ちだったらそうするかもしれない。

でも、大金持ちではないので、安く済む大掃除をする。

 

しかしながら、腐りきった心持ちでも窓なんかを拭いていると、目に見えて綺麗になっていく様子になにか心洗われる感を抱いてきて、家だけでなく自分の精神までスッキリしていくのであった。

年末にコロナになって停滞していた空気もようやく動き出し、掃除と共に浄化されていく。なんか、部屋の空気から濁りが抜けていくみたいだ。

澄んでる。

掃除をして後悔したことなど一度もない。

我ながら単純である。

 

キッチン周りの油汚れや、見て見ぬフリをしていた排水溝やシンクの汚れなども、勢いに任せて掃除していく。

本当に嫌だけれど、これをやると、自分は正しいことをやっている、そんな実感が湧いてきて、なにか社会に許されたような、この世界の一部になれたような、自己肯定感を抱けるのだ。

刑務所とか寺では盛んに掃除をする理由がよくわかる。

周りを清めることで心を磨くのだ。

ヤバいブラック企業とか特殊な思想を植え付けてくる団体でも病的に掃除をさせることがあるのは、それをやることで「邪」とともに心の中の腐敗を拭いさり、その余剰に支配の手を及ばせられるからだろう。

ピカピカになったシンクを前にして達成感と自己肯定感に満ちた私も、今なら危険な神を信仰できるかもしれない。

 

ああ、私はなんて、正しいのだろう。

私は確実に正義の側にいる。

悪を許せない。自分にそぐわない。

ああ、今すぐ世直しをしたい。

掃除をしたい。もっと、もっと、もっと。