蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

CDを捨てる

棚とCDラックを整理した。

CDラックが逼迫して本棚に侵食していたのだが、本を入れるスペースがなくなったのでCDを処分するより他なかったのだ。

50枚ほどを処分して本棚にスペースを開けることに成功したが、やはり作品を捨てるのは心苦しい。

でも売り飛ばすのもなんだか違うよなぁと思い、手放す覚悟をしたのなら自分の慰みに売るのではなく、廃棄しようと決心した。

 

最近はほとんどの音楽をAmazonMusicで聴いているので、CD自体が不要になってきている。

スピーカーにBluetoothでつなげば大音量で聴けるし、ベース音を強調することもできる。ネットワーク接続をすれば歌詞も表示されるし、MVも容易く見れる。

はっきり言って、CDの時代は終わったと言わざるを得ない。

CDよりも手軽に、CDよりもできることが拡張されて今の音楽は広がっている。

CDをオーディオにセッティングして再生する手間を考えるなら、レコードをセッティングして回転を愉しむほうが心は豊かな気もする。ジャケットもインテリアにもなるし作品として鑑賞できる手間が素敵であったりするので、レコードは近年売り上げを伸ばしているのだろう。

もはやCDはライブ先行予約チケットや握手券を同封するためのケースでしかない。

 

でも、それじゃあ、過去に買ったCDはもう価値がないのかというと、そういうわけではない。

物には思い入れがある。

これはいつ頃どこで買ったもので、歌詞カードにはこんなことが書かれていて、解説にはこう書いてあって、あの夜に聴いてて……と透明プラスチックのケースの擦れやひび割れに指先をなぞらせては懐かしく寂しい気持ちになる。

形として手に取ることができるというのは、思い入れに確たる質量と質感と色があるということだと思う。

インターネットから拾うデータは劣化もしないし、サービスが続く限り存在し続け、いつでもどこでも聴くことができる。

だが、いつまでもあるとは保証できない。そのサービスがなくなったとき、データは形として残らず、質量も質感も色も消えてしまう。

データそのものに思い入れは宿るのだろうか?

その曲を聴いた時に思い出す景色や情景はもちろんあるけれど、残ったとしても「それだけ」なんじゃないだろうか?

つまり、「物」としての思い入れ、価値は残らないのだ。「物」に触れたときにだけ閃く感情は無いのである。

CDだって「物」だからいずれは劣化して音も出なくなるだろうが、それでも物として残る価値はそこにあり続ける、と信じたい。

 

CDを捨てるのは心苦しかった。

捨てたのは比較的買ったのが最近のものばかりだった。なぜなら思い入れが薄かったから。

今残っているものたちは、おそらくこれからもずっと手放せないでいるのだろう。