海を散歩していて、ベンチにゴミが放置されているのを見て、嫌な気持ちになった。
コーヒー屋のプラスティック容器とストローだ。プラスティックは海にも溶けないし風にも馴染まないことを知らないのだろう。いや、もしかしたら、「ゴミ箱」を知らないのかもしれない。生まれたばかりなら知らなくてもしょうがない。
ゴミを平気で放置していく人はよくわからないし、こう言っては悪いけど、ギリギリ言葉を喋れているくらいの育ちの悪さが根本にあるのだろう。
ゴミはゴミ箱に捨てるよりも放置していった方が気持ちがいいし、海は汚れている方が「わびさび」がある、という憐れな感性をお持ちなのだろう。
そういう人たちが私に何を言っても、私は傷つかないだろう。
虫がぶんぶん飛んでいるのを煩わしく感じる程度の、低いレベルなのだ。
「こいつに何を言われても、こいつは低級だからなぁ。一生懸命言葉を使おうとしているのだなぁ」と憐れな気持ちすら抱くかもしれない。
ゴミ箱にゴミを捨てないで平気で海を汚していく人間のさもしい心に対して私が抱ける情念は、怒りを通り越して憐憫である。
結局そのゴミは近所のカフェの店員が回収していた。
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だけど、ゴミ箱が無いのは事実である。
それもどうかと思う。
ゴミを海に捨ててほしくないなら、ゴミ箱を設置すべきだ。
自治体は「海を綺麗に!ひとりひとりの心がけを!」と小学生の描いたようなポスターで人々の情けに訴えかける作戦をおそらく半世紀以上やっているのだが、いい加減効果が無いことに気付くべきだ。
そもそもゴミを持ち帰らずにそのへんに捨てていく人種が小学生のアクリルカラーのポスターに目を止めて「そうだよな。ゴミは、持ち帰らなきゃな」と思えるだけの情操に達しているわけないだろう。
100メートルおきにゴミ箱を設置すればいいじゃないか。
それで済む話のような気もする。
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堤防まで歩いて行くと、はたして堤防は綺麗だった。
以前は釣り具のゴミでめちゃくちゃになっていたのだが、どういうわけだろう。釣り人が死滅したのだろうか?
ちがった。
ゴミ箱が設置されていた。
いかにも手作り感のある網製のごみ袋で、もしかしたら漁協が破損した網をリサイクルして作ったのかもしれなかった。
「釣り糸」「仕掛け付きの釣り糸」「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」などと細かく分別されており、これならわかりやすい。
また、上を切った空き缶が2メートル間隔で設置されていて中を覗いてみると、それは灰皿だった。
これはわかりやすい。
人間はゴミ箱がないからポイ捨てするのであって、わかりやすくゴミ箱があればちゃんとそこに捨てるのだ。
漁業組合が設置したらしいゴミ箱にその効果を見た。
自治体は「海を綺麗に!」と言っては捨てられたゴミをボランティアを募って拾わせるばかりで、なんだか方向性がちがう気がする。
ゴミを拾うことも大事だけど。
故郷の海は人がいない冬は美しいし、人間だってほんとうはもう少し優しい。