蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

耳鳴り

 クビシンの死骸を見たその日の夜から、耳鳴りがはじまった。
 大学帰り、ソレはアパートの敷地の隅に桃色の血を流して伏していて、うわぁ、よくないな、ていうかハクビシン見るのはじめてだ、ブッサ、そういえば最近ハクビシン増えててゴミを荒らしたり古い住居に侵入して天井に巣を作ってるなんて噂もあるし、こいつもきっとそのうちの一匹だろう、憐れなことであるよ、合掌、なんて思い、僕はアパートの部屋に帰ったのだった。アレは誰か片付けるさ、なんて言いながら。
 ミネラルウォーターを飲み、発泡酒を飲み、Twitterでくだらないツイートをして、ひょっとしてバズるかなと期待しつつ、安ワインをマグカップいっぱい飲み、センズリこいて、疲れて眠くなり、寝た。

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 22時過ぎに目が覚めてスマホを確認すると、なんの通知も入っていなかった。さっきのツイートは誰のハートにも響かなかったんだ。起き上がり、寝癖のついたまま、ポケットに野口英世を一人忍ばせて、陰嚢(いんのう)を揉みながら玄関を出た。うっ。また見た。

    ハクビシンの死体。まだ片付けてないのか。最初に見てから6時間以上経ってるし、ここは住宅地だ、アパートの住民の多くはコレを目にしたはずなのだ。それなのにまだ放置されてる。人間だけじゃない、カラスや野良猫や害獣たちがコレを放ったらかして死体荒らしもしてない。僕は嫌な気持ちで敷地を出て、コンビニへ向かった。


 どこかの家庭からお風呂のにおい、お父さんと子どもの声、少し歩くと母親の怒鳴る声、テレビの音漏れが聞こえて、夜道はいつも通りの家庭を営んでいた。それぞれの人生を歩んでいる。
 コンビニでおでんと冷凍うどんと日本酒を買った。度数の強いお酒ばかり飲むようになったのはいつからだろう。ぼやけた目じゃないと直視できないことが多すぎたせいだ。

   そんなことを考えていたらお風呂のにおいと親子の声が鮮烈に僕の首を絞めてきて、なんだか月に吠えたくなった。桜が散っていた。道路にへばりついて、塊を踏むとくちゃりと沼の音がした。春の夜を駆ける獣になった。
    桜の足跡。ハクビシンの死体。アパートに戻るたびにこれを見なきゃいけないなんて。明日の朝もまだあったら大家に言うべきだろうか。他の住人だって見ているはずなのにどうして何もしないんだろう。
 ハクビシンに桜の花びらがすこし積もっていた。僕の桜の足跡がハクビシンに続いてた。 

 

    僕は日本酒をあおりながらタイムラインをあおる。

 

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    反応なし。フォロワーたちはタイムラインにいて、リプライを送り合ったりいいねしてもらったり、休日の遊園地の写真を載せたり料理を載せたりして盛り上がっているが、まあ、僕のつまらない呟きになんて誰も反応しないよな。
 その時、通知が来た。胸躍らせて画面を開くと。

 

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    ため息。酒臭い。
 返信相手は特定の言葉に反応して自動で返信してくるbotだった。メッセージ元に人間はいない。計算とプログラムだ。
 タイムラインをスクロールして最新のツイートを読みこもうとするが、微弱なWi-Fiのせいで時間がかかる。飢餓感が僕を急く。
 ぽん☆、と音がして表示された最新のツイートは、サークルの後輩の女の子の、お花見報告(写真4枚)だった。かわいいな。付き合いたいな。セックスしたいな。陰茎に、熱。
 何気に撮影者の影が映ってるな。におわせてるな。彼氏の存在を。陰茎に、冷。


 酒臭いため息。布団をかぶってぎゅっと目を瞑った。爪を齧った。だんだん血の味がしてきて、悪い癖だ、と反省するけどやめられなくて、今度は唇の皮を剥いて、薄皮を食べる。錆びの味。こうでもしないと眠れそうもなかったが、再びブルーライトのいななくスマホに手を伸ばし、今度はYouTubeを漁りはじめた。結局寝たのは2時前。いつまで経っても布団は冷たく僕を塞ぐ。その時に耳鳴りがしていることに気付いた。
    寝れば治ると思っていた。


 夢の中でも耳鳴りは遠雷のように轟いていた。起きても耳鳴りは治っていなかった。酒を飲みすぎたのかもしれない。
    しかし、この程度じゃもう驚かないほど、僕はすべてにおいて鈍くなっていた。気にしない。わたくしは、フジパン・ネオ・バターロールを2個、テキトーに焼いて、紅茶のティー・バックで軽やかに流し込み、朝の憂鬱を愉しんだ。余裕さ。
    とか言いつつも、耳鳴りを意識しないようにわざと忙しく講義の準備をし、紛らわすように颯爽と部屋を出た。そして、アパートの階段を下りるときに、それが目に入った。
 ハクビシンの死体だ。

 

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 と、ふざけたツイートをした反面、その乾いたピンク色の体液が目に入った瞬間、ムンクも叫びだしたくなるほどの耳鳴りが鼓膜に突き刺さった僕は立っていられなくなり、階段に座り込んで猛烈な吐き気を堪え、浅く素早い呼吸を繰り返した。目を瞑り、他の何かを考えようとしたけれど駄目だ、ハクビシンの死体が脳裏でぐにゃぐにゃと広がる。ハクビシンハクビシンハクビシン
 通りを歩く足音。排気ガスのにおい。郵便屋がアパートのポストにダイレクトメッセージを投函するリズミカルな音。無言のハクビシン。気道の狭まる浅い呼吸音。桜が散った。Twitter。ひらく。震える手。

 
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    投稿したところで気分は悪いままなのだけど、呟かずにはいられなかった。誰かに気付いてほしかったのだ。鼻を啜る。
 しばらくそこで蹲(うずくま)りいくらかの人が通りを過ぎ去るのを見守り、幾千の花びらの運命を見守って、少し耳鳴りが落ち着いたころ、僕は立ち上がりハクビシンが目に入らないように(ソレを見てはならないと直感でわかった)、足早に階段を下りて、速度を保ったまま大通りへ抜けた。スマホで時間を確認すると、2限の始まる時間だった。太陽が高い。なんの通知も入ってない。

 


 遅刻確定の授業をサボり、サークルの部室でダラダラすることにした。
 僕の大学は1、2年生と3、4年生でキャンパスが異なるため、1、2年生のキャンパスに置かれているこの部室は実質、1、2年生の後輩たちのものだが、もちろん4年の先輩がいても誰も咎めない。部室はサークルみんなのものなのだ。
 誰かが全巻置いていった『スラムダンク』を読んだり、日誌を眺めたり、なぜか置いてあるクラシックギターを弾いてみたりして時間を潰した。
 誰も来ない。2限はみんな授業があるのだろう。真面目だ。
 しかし、昼休みになっても誰も来なかった。外の下級生の賑わいが部室の静寂を深くして、遠くなった耳鳴りを意識させた。後輩は来ない。
 まあ、来たところで、あまり話し上手ではない僕だからうまく対応できないのだけど、わかってくれるかな、人がいるだけで心の居場所があるというものなんだ。そうしてそわそわしながら『スラムダンク』の続きに目を滑らせた。
 昼休みの終わる間近、後輩が一人来た。昨晩お花見のツイートしていた、今いちばんヤリたい後輩ちゃんだ。
「おー!やっほー」ドアを開けた彼女にそう言うと、彼女は一瞬驚いたように固まって、ぴったりと優秀な笑みを浮かべて「こんにちは、来てたんですね」と部室に軽やかに入った。桜の花びらが部屋に一ひらだけ舞い込んでくることがある。それによく似ている。
「これからお昼?」
「いえ、3限ドイツ語です」彼女は言いながら『スラムダンク』の本止めにされていたドイツ語辞書を手に取った。この辞書は僕が入学する以前から『スラムダンク』と共に部室にあって、時に重しに、時に鍋敷きに使用される。
「サボっちゃいなよ~」
「いやいや、必修なんで」彼女は笑った。下がった眉毛が愛らしい。
 きっと、彼氏にしか見せない笑顔があるんだろうな。ふと思って胸がぎゅっとなった。耳鳴りがした。
「先輩はサボってるんですか?」
「サボってなかったらここにいないよ」

    はは。 

    彼女の笑顔が耳鳴りに響く。「就活はどうなんですか」なんて聞いてくれる子じゃないことくらいわかってる。
 それきり、会話は途切れた。と言っても、5秒くらいだ。でもその5秒は、たしかに会話が途切れて、気まずい空気が流れたのだ。
「じゃ、お疲れさまです」彼女がドアノブに手をかける。僕はもう少し何かを話したくて、口を動かした。
「どうかしたんですか?」
「いや、あの、お花見、いいよね。ツイート見たよ」
 彼女は無表情になった。と言っても、刹那だ。すぐに優秀な微笑みを湛えたのだから。でもその、たった75分の1秒間、たしかに彼女は無表情になったのだ。耳鳴りがハウリングした。
「あれ、井の頭公園なんですよ」
「へぇ~」僕は耳鳴りの気分の悪さに顔が曲がりそうになるのを必死に堪えた。
「今度、ってもう来年かな、みんなでお花見したいですね」
「そうだね」
「じゃあ、私、授業行くんで。お疲れさまです」爽やかな声で彼女は言って──
「お疲れ~」
──颯爽と出て行くと、扉が重く閉まった。二度と開かないみたいに。


    その後、カフェに行った。部屋に帰る気にはなれなかったのだ。カフェの柔らかすぎるソファに腰掛けると、床まで沈んでしまう気がした。
    何もしてないのに疲れてる。耳鳴りのせいかもしれない。なにせ、もう12時間以上鳴り止まないのだ、病まないわけがない。
 耳鳴り。今朝の耳鳴りを思い出すと吐き気がする。それに伴ってハクビシンの死骸が目に浮かぶ。それによりまた吐き気。永久機関か。
 さすがにもう誰かが片付けただろうか?きっと片付けたに違いない。昨日は僕が発見したのが夕方だったし、処理業者も対応できなかったのだろう、今朝だって業者が来る前だったのだ、きっと、綺麗好きな大家さんが放っておくわけがない、あんなにすさまじく野垂れ死んでいたんだから、大丈夫だ、きっと片付けてる。
 あんなにすさまじく野垂れ死んでいたんだから……。
 僕はアイスコーヒーを吸い上げ、呼吸を落ち着けるように、ごくり、とひと口大きく飲み込んだ。それでむせてしまって、手を挙げて店員を呼んだ。店員が気付くまでにずいぶん時間がかかって、イラついた店員が水をテーブルに叩きつけで少しこぼれたときには僕は独り、落ち着いていた。なぜ店員がイラつくのだろう。
 スマホを開けると一通のLINE。五輪大臣が辞任したとか。どうでもいいニュースだ。煙草が不味かった。それだけだ。


 Twitterでネタツイを眺めたり、ミスコンの候補者の画像を眺めたり、「コウペンちゃん」や「自分ツッコミくま」を眺めたりして時間を潰し、飽きたら文庫本を読み眺め、集中力がないので数ページ読んだらまたTwitterを開いて通知が来ていないか確認し(来ていない)、アカウントだけ持っているインスタグラムで中学の同級生たちの春の様子を傍観し、また文庫本を読み、煙草をいたずらにふかして、時間がふけるのを待った。
 なにも頭に入ってこないのは、耳鳴りのせいだろうか。ハクビシンはもう燃やされただろうか?腐乱してカラスに食い荒らされていたらどうしよう。蛆(うじ)がそこらにまき散らされていたらどうしよう。アパートがそんな世紀末で汚されるのは勘弁してほしいものだ。そうなる前に処理してほしい。
 考えていると耳鳴りが脳髄にまで響き、頭が痛い。15時半。帰るにはまだ早すぎる。


 カフェを出て、平日午後の映画を見て、19時、本屋へ行き、プラプラとそのへんを歩いたり立ち止まったり、駅の近くのラーメン屋で大して腹も減っていないのにラーメンを食べたから気持ち悪くなって、21時、公園で春の夜の冷たい風に吹かれながらコーラを飲んで、買った漫画を読んでいたら野良犬が死ぬ描写があって、耳鳴りがまたズキズキとひどくなり、本当に吐きそうだったから、観念してハクビシンがいなくなったことを願いつつアパートへ戻ることにした。黄色い唾液が口と胃を行ったり来たり、吐き気には波があって、しばらくの凪ぎの後に激しい時化が長い時間襲う。
 アパート近くの茂みで一度屈むが、うまく吐けなかった。湿った息が虚しく吐き出され、軽薄な扉を叩くような鼓動が大きくなって、通奏する耳鳴りにリズム隊が加わり、ろくでもないマーチを奏でた。
 木陰でTwitterを開けると後輩がスタバの新作の写真を載せていた。「かわいいスカートですね」って可愛い文字で書かれたカップ。彼氏と行ったんだろうなどうせ。17ふぁぼ。

    おれに通知はない。なにもかも惨めだ。


 ぼやけながら、ぼやきながら、さながら幽鬼のごとく、気付けばおれはアパートの前にいた。
 腐臭はしなかった。その事実が期待を持たせる。アパート前の駐輪場も綺麗にほうきで掃かれている。桜が散っているから、今朝は花びらがひどく積もっていたのだ。ハクビシンにも積もっていたな。あれは血だったか?
 ああ、ハクビシンはどうしただろう……。

    確かめなければならない。

    耳鳴りがうわん、とひとつ大きく唸り、おれの背を、喉を、指先を、そして瞳の奥を、冷たく灰にした。湿った虚無が胃の奥から出て止まない。
 おれは、確かめなければならない。
 Twitterを確認した。通知は入っていなかった。
 

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    なんだかとても、泣きたかった。いつから誰かのために泣いてないだろう。自分のことにすら泣けないのに。

    ハクビシンだって死にたくて死んだわけじゃない。生きたくて生きていたわけじゃない。それなのに、どうして、あんなひどい死に方で、野垂れ死にしなきゃいけなかったんだ。どうして誰にも相手にされず、いつまでも放置されなきゃならなかったんだ。おれは彼を想うと、彼の孤独に耐えられなかった。彼の孤独を想うと、おれの涙腺が裂けるようだった。凍りつくような耳鳴りが視界を灰色に染めた。
 もしも。もしも、今朝のまま放置されていたら、おれが弔ってやろう。その写真を撮って、Twitterとインスタに載せてやろう。誰にも相手にされてないんだ、誰の目にもつかないさ。耳鳴りが、うおんうおんと泣く。

    確かめなければならない。
 そしておれは、アパートの敷地へ足を踏み入れる。スニーカーの裏のゴムがみしりとコンクリートの沼に堕ちる。
 おれは、ああ、と声を漏らした。
 ハクビシンははたして朝の姿のまま、そこに横たわっていた。耳鳴りが世界に轟いた。


 カラスが鳴いた。ムクドリが飛んだ。桜の花びらがおれたちに降り注いだ。
 バイクが通った。革靴の鳴る足音がした。桜の花びらが目の前に散った。
 おれたちの横を佐川急便の配達人が段ボールを抱えて横切り、107号室の住人のインターホンを押した。107号室の住人が扉を開け、ハンコを押した。桜の花びらが107号室に一ひら、舞い込んだ。
 スコップが硬い土を、冷たい土を、容赦なく除けていく。手首に硬さが伝わる。冷たさが脳幹に響く。見上げると葉桜。
 佐川の配達人と目が合った気がした。春の穏やかな午後に似つかわしくない汗を流すおれと、ハクビシンの死体と。配達人は何も見なかったよつに素通りし、トラックへ乗り込み、嫌なもんを見せるなと言いたげに、ワゴンの扉を強く締め出した。その音に乗せて、ハクビシンは浅暗い底なしの闇へ滑り込んでいった。そこに桜の花びらが、この春最後の花が、そっと寄り添った。
 独りじゃないぞ。
 お前は独りじゃないぞ。そう呟きながら(はたから見たら狂人だったろう(でもおれの呟きに反応する人なんていない(おれたちを見る者なんていない)))、湿った虚しい土塊(つちくれ)を干からびた青い獣毛に、一心に放っていった。
 独りじゃないぞ。お前は独りじゃないんだ。おれがいる。桜がある。この世界にいたんだ。おれが知ってる。この世界で傷(いた)んだ。おれが知っておくぞ。独りじゃないんだ。お前は独りじゃないからな。決して。
 耳鳴りなのか、動悸なのか、それとも春の夜の空鳴りはこんなにもおどろおどろしいものだったか、視界が揺れ、土塊の上に灰色の水滴がこぼれ落ちた。


 アパートの倉庫から引っ張り出してきたスコップを、山になった土塊の上に刺し、おれは泥だらけのスニーカーを引きずって、2階の自室へ帰った。写真撮り忘れた。でもどうせ誰も見やしない。無駄だ。おれだけが覚えていればいい。
 扉を閉めるとしばらくぶりの静寂があった。
 

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    腕のまとわりつくような疲労感に目を瞑って心地よさと気味の悪さの拮抗に思い耽ていると、ぽわん♪、と浮かび上がる音がした。後輩からリプライが来ていた。

 

 『Twitter、なんか最近病んでますねw。今日は急いでてお話しできなくてごめんなさいでした(涙)でも久しぶりに会えてうれしかったです~。また部室来てください!』


 僕はTwitterを閉じて、そのままアプリを消し、電源を落とした。
 いつ以来だろう、こんな静寂は。


 僕はもう独りじゃない。腕の疲労感がその証だった。

 

(終)

 

 

 

 

 

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