蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

プリウスの青い呼吸と私の心拍数

    のことが大嫌いだった。

    浮気ばかりして、嘘つきで、人でなしで、家族を蔑ろにし、軽薄に「愛してる」と言ってはすぐに家族を裏切り、誠実さのかけらもなく、それなのに仕事は恐ろしく有能で人望があったから、父の仕事仲間や家庭事情をよく知らない親戚からは「あなたのお父さんは本当に素晴らしい人です。あんなにすごい人は滅多にいない。本当に尊敬できる人だし、これ以上の人はいませんよ。息子さんであるあなたは恵まれてる」みたいなことをしょっちゅう言われ続け、父の言葉との矛盾に苦しんだ10代を送った。

    そんな父がこのあいだ死んで、めちゃくちゃすっきりした。あー、よかった。これで呪縛はなくなった、と思った。

    父は私たち含め3つの家庭を持っていたので、はっきり言って相続が韓国ドラマみたいに熾烈を極めており、最悪、なのだけど、これを乗り越えたら何もかもから自由になれるから、堪えようと思う。

 

    父は嘘つきのサイコパス野郎でゲスの極み男だったが、周りの人の話を聞く限り、どうやら2家族目である私と妹のことは本当に愛していたらしくて、会う人会う人に3家族目の新しい妻のことではなく、2家族目の私たちのことばかり話していたようだ。

    だからって別にほかの家族のマウントをとろうかとかそういうつもりはなく、ただ、なんかその事実であり真実が、ときどき私の心の隅をちくちくと突き刺すのだ。

 

    父からのLINE。

    元気か〜?今日は寒いなぁ!お金振り込んでおいたよ〜〜!今日は浜松で仕事!がんばる!インフル流行ってる!気をつけろよ〜!お茶飲め!

 

    みたいな。おじさんらしく下手くそな使い方の絵文字とか入ってる。

    彼が死ぬ前はこういうLINEが本当に嫌で、返事も簡素にし、ほとんど無視していた。

    今、父のLINEを見ると、空が黄色く膿んでいくようなそんな心持ちがする。

 

    きっと、幼い頃親に裏切られたことや、母があまりにも傷つけられたことや、なにも信用できなくなってしまったことや、そのせいで早くに覚えてしまった諦観や、父が恥晒しだという劣等感や、父から受けたもろもろの傷や、「愛」と称される形のなかった言葉だけの真実は、私が死ぬまでずっと付きまとうものなのだろう。雨の日に古傷が疼くみたいに、ときどき思い出しては孤独に浸るのだろう。父を思い出しては、遣る瀬ない感情が心の隅をちくちくとつつくのだろう。

 

    父から受けた古傷を思い出すものがある。

    トヨタの車、プリウスだ。

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    父はずっとプリウスに乗ってた。

    プリウスはハイブリットカーというやつで、排気ガスがきわめて少なく環境にやさしいうえに燃費も抑えられる人気の車のため、皆さんも街で見かける機会も多いはずだ。好むと好まざるとにかかわらず。

    プリウスの走行音はとても静かで、車が生きている心地がしない。棺桶が走ってる音がする。青くて、争いを好まない、水たまりのように静かな車だ。

    空気を吸い込むような走行音はかなり特徴的で、耳を澄まさないとよく聞こえないかもしれないが、はたして私はこの音に敏感である。

    父がうちにやって来るときは、この青い走行音でやってきたものだ。生活費を届けにきたついでに父は私や妹と話したがる。それが嫌で、私はここ数年は部屋にこもって頑なに父には会わないように寝たふりをしていた。

    プリウスの音がすると、悪い意味でドキドキした。父が来た。怖かった。

 

    今では、もう二度と父のプリウスが来ることはないし、父に会うこともない。

    だから、外から誰かの乗るプリウスの青い呼吸が聴こえても、なにも恐れる必要はないし、心病むこともなくていい。はずなのだが、どうしても、胸のあたりが一瞬ぎゅっと詰まるようになって、父のことを思い出さないではいられなくなる。体が、プリウスの音に反射して、私の心拍数を上げるのだ。

    次第に治ればいいのだけど。

    私が父のことを完全に忘れることはなくて、そうしている間も父は生き続けるのだ。青い呼吸をしながら。遣る瀬無い感情がじくじくさせるのだ。

    少しずつ治ればいいと思う。