ダダイズムを代表する作品といえば『泉』や『彼女の独裁者たちによって裸にされた花嫁、さえも』や『L.H.O.O.Q』だけれども、ところでその作者って誰だったっけ、と帰りの夜道を歩きながら記憶を辿っていた。
『L.H.O.O.Q』(エラショオキュと読む)
エドワード・ホッパーじゃなくて、モンドリアンじゃなくて、ロスコでもなくて、ジャクソン・ポロックは全然違くて、ロイ・リキテンスタインじゃない、ジョルジュ・オースキンじゃない、フジコ・ヘミングはピアニスト、キース・リチャーズはギタリスト、えーと、そうそう、マルセル・デュシャンだ。
50音総当たりでようやく思い出してすっきりした私は、しかし、ひとつことに引っかかりを覚えた。
ジョルジュ・オースキン?
ジョルジュ・オースキンって誰だろう。
帰ってから調べてみたけど、そんな芸術家はいなかった。
ジョルジュという人か、オースキンというムートン専門店は出てくるけど、ジョルジュ・オースキンという人はGoogle検索にはヒットしなかった。
ジョルジュ・オースキン氏は私の知らぬ間に私の頭の中に入り込み、勝手に人生を創造し、思い出と記録を遺していた。彼はいったい誰なのだろう?
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ジョルジュ・オースキン、本名(ジョルジュ・バドラセル・ド・ラ・オースキン)は1902年ベルギー生まれ、6人兄弟の末っ子だった。
父は家具の修理屋で、この頃の修理品といえばアール・ヌーヴォーの電飾や家具が多かった。
家具屋はいい。家具は壊れるが、直せば使える。
ジョルジュ・オースキンの幼少時代や青年時代について多くは語らないが、ひとつ言っておきたいことは、彼が読書好きだったことである。
この時代の娯楽はほとんどが映画か本しかなく、貧困家庭の多くがそうであるように家庭内であまり相手にされていなかった末っ子のジョルジュは、いつしか内向的になり、学ぶべきことの多くを書物から得たようだ。
彼の10代について語るべきことはそれだけだ。あとはつまらない話。
第一次世界大戦で5人の兄を喪い、束の間の戦間期に両親を亡くしたオースキンはアメリカへ渡り、怒濤の第二次世界大戦で我が子を喪った。
家具を直して使う時代は終わり、家族のほとんどを損ない、破壊された故郷の瓦礫の中で、オースキンは自分の居場所・帰る場所を失った。
以来彼は一度もヨーロッパへ戻ることなく、1972年に亡くなるまで北アメリカで妻と二人、痛みを分かつようにして生きた。
☆
私がこの老人のことを知ったのは、大学時代に神保町の洋書専門店で見かけた古いペーパーバックがきっかけだった。
オースキンは1950年に小説家になったのだ。
寡作の作家で短い小説家人生の中で出した小説は長編が3冊と短編が2冊、そして「断片集」とも言えるようないわゆる手稿が1冊のみである。
【長編】
『川、そのまち』
『この雨は乾かない』
『大西洋』
【短編集】
『ジョルジュ・オースキン集』
『コールド・エスケープ』
【手稿】
『ささいなことが救いがたい』
もちろん、オースキンは有名な作家ではない。
多くの作家がそうであるように、時代によって忘れ去られ、家庭のささやかな本棚からも居場所を追われた。故郷を追われたオースキンにとってそれは心辛いものであるだろう。
ただ、不思議なことに、死から半世紀ちかくが経とうとした異国の古書街の小さな洋書店のセール棚にオースキンは居場所を見つけ、私はそれを手に取り、今ではうちのささやかな本棚の一隅に永遠の居場所を獲得している。まるで墓標のようにそこから動く気配がない。
私は短編集を気に入り、苦労して彼の全作品を集めた。
オースキンの文章は隠しようもなく素直だ。
怯えていて、薄情でもあり、しかし胸の内で煮えくり返る遣る瀬無いものへの怒りが端々で露わになる。じつに悩ましく憂鬱で「ささいなことが救いがたい」印象を受ける。
ストーリーはこの時代の多くのアメリカ小説がそうであるように、ヘミングウェイやチャンドラーやフィッツジェラルドの穴埋めを模索するもので、描写に乏しく展開自体も観念的である。
それは大衆への迎合を恐れているかのようにも読める。
ただ、そんなオースキンの小説は、読んだ後に(良い意味で)なにも残らない。
憂鬱な世界を書き出しているにもかかわらず、読み終わったあとには何も残っていなくて、そのことが清涼感を生み出している。
何も解決していないのに、明日へ勇み足で歩いて行ける、そんな気分にさせてくれる小説なのだ。
それはオースキンが家族を失い、故郷を失くし、生涯痛みに向き合った過程で生まれたひとつの生きる力の発露だったのかもしれない。
見かける機会は少ないだろうけど、見かけたらぜひ手に取っていただきたい。
青島文庫から翻訳も出ている。
※オースキンの生涯については短編集の年表を参考にした。