蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

いちごのヘタを食べる

    い頃はカップラーメンを作ったら、3分間きっちり時間を計ってカップラーメンの前で正座し、3分間という永遠にも思える時間をただひたすらに、純粋無垢な気持ちで待っていたものだが、いつからか3分なんてどうでもよくなり、今はテキトーな時間で食べはじめるから麺が若干のびてしまうときや、まだ浸かりきっておらずゴワゴワした状態で食べてしまうときがあって、そのたびに私は「あの頃に戻りたい」と思うのだ。あの頃。3分きっちり待っていた頃。

    やればいいじゃん。3分きっちり待てばいいじゃん。

    そうなんだけどさ、ちがうんだよ。正論を言うな。殴るぞ。

    私はもはや、カップラーメンごときに純粋で無垢な瞳をもって3分間ジッとしていることなんてできないのだ。魂がくすんでしまったんだ。曇った水晶みたいに。

 

 

    あの頃に戻りたい。

    はやくカップラーメンを食べたくてわくわくソワソワしていたあの3分を、もう一度味わいたい。あの、永遠のように長くて幼い時間。立ち上る湯気に心躍らせたい。

    だが、もはやそれは叶わない。そんな気持ちにはとてもなれない。

    私はいつからこうなってしまったのだろう。こういう積み重ねが大人になることなのだとしたら、大人って多分ロクでもない。

 

 

    いつからだろうか。私がいちごのヘタを食べるようになったのは。

    我が家ではいちごはヘタを切った状態で食卓にのぼらない。各自でヘタをちぎる主義である。ヘタをまとめて切るのは面倒だからだ。

    マザーと妹子は毎度毎度ヘタをちぎって食べていて、やれ面倒くさそうだな、と私は嘲笑するのだが、一方で拙僧はヘタをもぎらず、そのまま、丸ごと、丸かじりして、んほほっ春の味、と尻を振って喜んでいる。

    そのさまを見てマザーと妹子は私をキチ◯◯呼ばわりするけど、いちごのヘタを食べれるというのは時短につながるライフハックなんだよ。己(おれ)は最先端なんだよまったく。と私は怒るけど、このことを友だちや恋人に言っても私以外に実践する者はいだことがない。

    たしかに、ヘタだけ食べると草食動物を憐れみたくなるほど不味いのだが、ヘタもいちごと食べるとなぜか憐れな味がいちごに掻き消されるのだから不思議だ。歯触りは悪いけど、そこまで問題じゃない。

    このことに気付いて以来、私はいちごのヘタも一緒に食べるようになった。

    もういちごのヘタをちぎる手間はなくなったけど、かわりにいちごへの期待感も損なわれた気がする。いや、期待感というか、なんだろ、儀式性というか、エートね、誠意、というか、そんななにか大切なものが確実に薄れてしまった気がするのだ。

    こうして大人になっていく。

 

    同じように、ここ最近の夏はすいかのタネをすべて飲むようになった。歯触りも味も最悪なのですいかを嫌いになりそうだ。でも、面倒なんだ。あのタネをいちいち取り出すのが。だからもっぱらすいかではなくスイカバーを食べる。すいかのジェネリックとして。もはや、すいかがスイカバーのジェネリックになってる。

    ぶどうもタネと皮を食べるようになったし、このままだとバナナの皮すらも剥かずに食べはじめそうだ。そうなったら私のことはゴリラと思ってくださいね。ゴリ迷路。

 

 

    きっと、すべて物事は「ひと手間」が大切だったのだ。そして、その「ひと手間」は誠意に起因するものだったのだ。それこそが無垢で純粋な瞳を輝かせていたあの頃だったんだ。

    音楽や文学や技術にも同じことが言える。

    ボタンをひとつ押しただけでさらっと聴き流せてしまう昨今の音楽よりも、いちいちレコード盤を拭いて、レコード針を交換し、A面が終わったらB面にひっくり返して、やれやれと思いながら聴くレコードの時代の方が、なんだか音楽を大切にしていたような気がしてならないのだ。

 

    「ひと手間」を愛そう。それが誠意だ。

    私もいちごのヘタを食べるのはもうよそう。外でやると周りに見られたりするし。

 

 

    通算100記事目の誓い。