昨日は七夕で、日本各地に短冊がひらめいていたわけだ。
七夕のお話としてお馴染みの織姫と彦星だけど、あのお話の初出はどこだろう?Wikipediaを駆使して調べたところ、初出は『詩経』らしいけど、定かではない。
どこかの誰かが夏空の天の川に分かたれた二つの星を見て、織姫と彦星のお話を思いついたのだ。
こういった昔話を私たちは当たり前のように受け入れて楽しんでいるけど、話のすべては、もともとは誰かが作ったということを忘れがちである。
桃太郎も浦島太郎も ものぐさ太郎も、神話だって、あるいは伝説だって、誰かが創り出した創作物なのだ。
もちろん、元ネタはある。
多くの神話や伝説には元ネタがある。たとえば、と考えてもまったく思い浮かばないのは私の無学だけども、大学で習ったのだが、浦島太郎の元ネタは日本書紀?だか古事記?あるいは万葉集とかとにかく最古の日本の書物にまで遡れて、その原典と思われる話は浦島太郎ぽさはあるけれども無駄なところは一切省かれていて、浦島太郎も老化していなかったような気がする。さらにその話には元ネタがあり、どこかの海辺の漁業を営む男が父母を顧みずウンタラカンタラ、みたいなクソどうでもいい話だったような気がする。まったく合っていないと思うので、気になる人は調べてください。
ともかく私の印象としては、え?これ浦島太郎伝説?って感じだった。
そういった、どっかの村人のクソどうでもいい旅行の話とかちょっとよくわからない不思議なこととか、古代では考えようもなかった科学的根拠を持つ事柄が話のタネとなって、ネタとなって、そのうち尾ヒレが付き、「お話」になったのだろう。
その「お話」は語り継がれるうちに形成されたものだから、つまり、「みんな」で作り上げたお話だと言える。
すごいなぁ~と、都会では見えない天の川を見ながら思う。
七夕伝説も、中国や朝鮮などさまざまな場所をめぐって日本にたどり着き、語り継がれてるんだなぁ。その長い歴史の中で変わらなかったものは、天の川の星々の輝きなのだなぁ。おれってロマンチストだなぁ。
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でも、ちょっと待て、と思った。
七夕伝説の元ネタがあったとして、そのネタを天の川に分かたれた二つの星に語らせようと考えついた人は変態なんじゃないか?
だって、おかしいだろ。
星を見てお話を思いつくなんて、ちょっとヤバい人だ。どんだけ暇だったんだ。どんな教養があったらそうなるんだ。
きっと、村では牛もひかず、畑も耕さず、嫁も貰わず、コミュニケーションがたどたどしくて、そのくせチューハイばかり飲んで亀の甲羅を日がな愛でてるような、ヤバい人が思いついたんだろうな。
そんな人の考えついたお話が形を変えつつも語り継がれてるのはおもしろい。
もしかしたら誰かのうわさ話も形を変えて数千年先まで語り継がれてしまうから、口には気を付けたいものだ。
キモいな~。良い意味で。
そう思っていたのだけど、私は自分自身がキモいことを忘れていた。
私もお話作りが趣味の人間の端くれとして、ちょっとしたことに発想を生むことがある。
たとえば先日、道端にユリが咲いていて、その物凄さに畏れをなして崇めたのだけど、めしべに花粉がこんもりついているのを見て、受粉、と思った次の瞬間、お話を思いついたのだった。
なぜかその時の思考の筋道をよく覚えているので、記しておこう。
おしべとめしべ→花と性交する人→花が恋人の人→花が恋人?→恋人の死→花=死→花に話しかけるとは、死人に話しかけるということ。
こういう思考回路を辿って、ひとつお話を書いた。
それがこちら。
君は花だ。君のそばを通ると花の香りがする。僕は目を奪われ、心を奪われ、泣きそうになる。
— 蟻迷路 (@arimeiro) June 8, 2019
街角の花だ。君のその街角を通ると、僕はついに泣いてしまう。
あまりにも悲しい。
僕も花を供する。少しでも君が寂しくないように。
老人の車が突っ込んだあの日から、その街角は君への花で彩られている。
タイトル『供花』
キモいな~良い意味で。
七夕伝説のお話を思いついた人も、星を見ていて、こういう感じで思いついたのかもしれない。そして、こういった発想の流転のしかたはその人の教養や経験や思想や人生に基づいているから、発想の転がり方とそこから生まれる物語はその人の個性だ。
発想の種がどんな花になるかは本人すらわからない。雲がどこへ行くのかわからないように。