高校生の頃、各大学が広い会場に集合して合同キャンパス説明会を開く催しがあって、暇つぶしに行ったことがある。
理系大学が多くて、なかなか興味をそそられた。
漢方薬を実際に作ってみたり、人間の体のバランスを測定する実験器具があったり、女子大生が豚の精液を冷凍して解凍して顕微鏡で精子が生きてるか声を出して確認したり(性癖が歪んでしまうな)、当時まだあまりされていなかったプロジェクションマッピングの実演を見たりして、説明会と言うよりか、ちょっとしたお祭りみたいだった。
その中で、大学の名前は忘れてしまったが、ブースである数学教授が講演していたのを、今でもよく覚えている。テーマは「天才と秀才のちがい」だった。
教授は、自分が天才であることを認めていた。
「私はね、天才なんです」開口一番そう言った。
どんだけ自信あるんだコイツ……と斜に構える私。「そう言うのには理由があって、生まれながらに天才だから仕方がないんですよ。自己紹介をしただけです」
なんだコイツは……大学の教授って変わった人が多いのかなと当時思ったものだ(余談だが、大学教授は変わった人しかいない)。
教授は自分の生い立ちを語りはじめる。
名前の由来から両親の仕事、幼いころ何に興味があったか、私たちくらいの高校生の頃何をやっていたか、部活は何だったか、教授職の前はなんの仕事をしていたか、など比較的細かく、天才とやらの生涯を話した。
その生涯は数奇なものというわけではなかったが、なにか神様から「選ばれた」と思わせるような、幸運と才能に満ちたものだった。
教授はよく行く飲み屋で店主とひとしきり話した後、酩酊して店を出た。暖簾をくぐって店のわきを通り過ぎた直後、大型トラックが店の奥まで突っ込んで、店主は帰らぬ人となったのだそうだ。
「私はね、この事故で、まったくの無傷でした。その時ね、私は神さまから、まだお前にはやることがある、と言われたような気がしたんです」
たしかに、そんな出来事があればそう思わずにはいられないかもしれない。
「天才と秀才の違いってなんだかわかりますか?」教授にそう問われた。
なんだろう。神さまに愛されることだろうか。教授が「天才」なのかどうかもわからないのだ。
「天才は、最初から天才なんです。秀才は、あとから『天才』と呼ばれるようになるまで努力をした人なんです。秀才は、教科書を隅々まで読んで、よく勉強し、他を凌ぐ力を身につけていきます。天才は、その教科書を作った人間です」
教授はそう言うと、大学数学のいち分野の教科書をひらり掲げ、表紙を見せた。そこには、その教授の名前が書かれていた。
「私は、この教科書を作りました。それだけではなく、この数学の分野を、確立したのです」
教科書を読む側か、作る側か。それが天才と秀才の違いだ。
でも、教授があの時言いたかったのは、そんな表のことではなくて、その裏にあることだった。
「秀才は天才にはなれません。天才は生まれ持ったものだから。でも、秀才と呼ばれる人には、努力さえすれば誰にだってなれる。どんな分野だって、なれるのです。そして、いくら天才であっても、努力をしないと本物にはなれません。あるときにその努力の中から生まれるものがあるのです。それができたら、人は生まれながらの天才だと言われるのです」
含蓄のある話だった。
とりあえず秀才になってみようかしら、努力をしてみようかしら、と目を輝かせてしまった。
あの教授の元で勉強したいと思った。
数学なんて興味なかったけど、あの人の元で、あの人について学びたいと思った。
しかし、その夢は努力以前に消し飛ばされることになる。
私は数学が天才的にできなかったのだ。