日曜日、かねてより楽しみにしていた、ミュシャ展に行ってきた。
渋谷Bunkamura みんなのミュシャ展〜ミュシャからマンガへ〜 である。
ミュシャに触れるのはこれが2回目だ。前回は2017年に国立新美術館で開催されたミュシャ展であった。
国立新美術館でのミュシャは、ミュシャといえばポスター!って感じの展覧会ではなく、巨大なカンヴァスに描かれた「スラブ叙事詩」を中心とする絵画がフィーチャリングされた展覧会であった。
今回の渋谷Bunkamuraでのミュシャ展はまさにミュシャ!って感じで、ポスター・広告・挿絵のオンパレード。前回あまりポスターを見られなかったので、楽しみにしていた。
当日、大混雑。
外にまで並ぶほどではなかったけど、各作品の前に行列ができており、ウミウシが進むようにゆっくりとしたテンポで作品を見て回ることになった。行くなら平日がいいだろう。
「今までで一番混んでた展覧会ってやっぱり草間彌生だよね」
恋人とそんな話をしながらロッカーに荷物を預ける。たしかに、国立新美術館で開催された草間彌生展の混雑はほとんど殺戮的だった。
私としては、東山魁夷展も外しがたい混雑だったな。あと、大昔にあったレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」が来たとき。あれはもう、絵を見ている場合じゃなかった。
展示の冒頭ではミュシャの初期作品や中国、日本の骨董やデザインが参照され、中盤からポスター展示となった。
いやはや、その美しさたるや。
私がもし絵描きだったら、ミュシャを見たらすぐに自分の絵を描きたくなるだろうし、ミュシャみたいな絵を描きたいと強く思うことだろう。字書きの私が村上春樹や吉本ばななを読んで書きたくなるように。
一枚の絵の中に大抵人物は一人か二人しか描かれていないのだが、その表情と色遣いには、美しさと、可愛さと、あやしいまでの妖艶さと、ある種の恐ろしさと、喜びと、憂いと、死が複雑に、見る角度によってさまざまなかたちで描かれており、一枚の、ワンカットの女性が佇んでいる絵に、ストーリー性がある。
一部の展示スペースでは写真撮影が可能となっている。みんなしてぱしゃぱしゃ撮る。
ミュシャのデザインはアール・ヌーヴォーと呼ばれるツタの絡まったような植物的なデザインが多用されており、背景どころか文字までもぐにゃぐにゃ曲がっているのだが、どうにも美しく見えるのはその線の鋭さと確かさに、裏付けられているのだろう。
髪の毛や衣服がQの字のように旋回してモチーフを巻き込んでいる。
装飾はうねり、回転し、絡み合い、複雑さを極め、ひじょうに豪華だ。
それなのに、私たちはミュシャの絵を前にすると、最初に必ずそこに描かれた人物の表情に釘付けになってしまう。なぜだろう?
デザインや文字を差し置いてもまず、人物に目が行ってしまう。
目力のためだろうか?デザインがそう設計されているのだろうか?それとも魅力的な人物だからだろうか?
おそらく、すべてだろう。
そしてそのすべてが緻密に、そうなるように設計されているのだろう。
ミュシャの描く人物には動きがある。鑑賞していて思った。
絵の中ではもちろん止まっているし、漫画のように動きが残像によって描かれているわけでもない。それなのに、動いて見える。動き出しそうに見える。
なぜか?その理由は展覧会の展示によって示された。
ミュシャはモデルの写真を撮っていたのだ。
動きのある対象の「瞬間」を、写真を用いて切り出し、それをもとに描いたことによって、写真的な、動きの「瞬間」を筆の先にぴたりと捉えることに成功しているわけである。
むろん、写真をもとにしても元来の努力によって培われた画力がなければ絵画としての「瞬間」をおさめることはできまい。
そして、人物の、肉体、筋肉、骨の仕組みが衣服の下に透けて見えるほど精巧に描写されていることが、より一層、「瞬間」の動きに説得力を与えている。
並々ならぬ観察眼と新技術となによりも好奇心がミュシャの絵を格の高い次元に昇華し、ポスターを芸術にしている。
だから絵描きはミュシャのように描けそうと思ってもそう簡単にはミュシャにはなれず、あくまでも「影響を受けた」者として評価されることになるのだ。ミュシャ的でしかない。それだけオリジナリティがわかりやすいということでもある。
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1時間以上かけて作品を堪能した。
人生であと何回、ミュシャに触れることができるだろうか?
何度でもまた感動させてほしいな。
図録の装丁がとてもよかったので、買ってしまったね。とりあえずは図録で次の機会まで楽しむことにしようか。