蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

資格試験を受けたし、多分受かった。

今週のお題「試験の思い出」

 

日、資格試験を受けた。

けちって3年前のシラバスの教科書で勉強していたので、試験には明らかに初見と思われる用語が乱発されてまったく要領を得ず、ほとんど神頼みみたいなかたちで問いに答えた。4択で良かった。

自己採点で合格点を超えていたのでたぶん大丈夫だと思う。でもやはりギリギリだった。けちって3年前の教科書で勉強すべきではないのだ。

 

大学以降は定期テストを除いて、ちゃんとした会場で試験を受けてこなかった。学校で必須にされていたTOEICも受けなかったし(嫌だったので寝てた。こういう態度はよくないと思う)、就活の時のなんか学力テストみたいなものも違うだろうし、きっちり120分の試験は久々だった。

それで驚いたのが、この数年で集中力があまりにも欠如していたことだ。

10分くらいでいてもたってもいられなくなり、試験問題の文字数を数えだしたり、遠い国の砂漠に思いを馳せたり、問題文の文章から卑猥なことを連想して陰嚢を揉んだり、唇の皮を剥いたり、鼻毛を抜いて鉛筆の上に並べるなどしていた。ときどき長い鼻毛が抜けると嬉しかった。

試験時間は120分もある。たとえばこれが映画の上映時間だったらそろそろ冗長だ。映画でさえ90分で充分なのだ。

120分もあるし、120分間集中しっぱなしなのも面白くない。早めに終われば途中退席もできるみたいだが、急ぎの用事なんてないし、外は寒そうだった。わざわざ早めに終わらせるメリットもないように思える。

なので、試験を解いているというよりか基本的には他のことを考えていて、気が向いたら答える、みたいな感じで余裕ぶっていたけど、いざ解くにもわからないことばかりで神頼みだし、はっきり言って、腐ってた。私が資格協会員だったらたとえ点数では合格していても、試験態度で不合格にしていただろう。資格協会員にはそういう権利があるはずだ。私がその権力を有していたら、熱心にも多くの受験者を不合格にしていただろう。

それにしても集中力の無さには我ながら呆れた。

どおりで人生がうまくいかないわけだ。

 

自己採点して、まぁこれは大丈夫だろう、ということで、家に帰って3年前の教科書はすぐに捨てた。

今後の参考書にするにも役立たない。なにもかも情報が古い。鍋敷きにするには心もとない。枕にするには硬い。この教科書には古紙再生として第二の人生を歩んでほしいというのが主の願いである。たった一か月しか勉強していないけど盟友なので、彼が第二の人生も楽しく過ごしてくれればこちらの望むところだ。

勉強のアドバイスを与えてくれたキャラクターが随所にちりばめられた教科書だったが、あのキャラはなんの役にも立たなかったな。「和み」にすらならなかった。なんだったんだ。

 

久しぶりに勉強をしてみて、つらいのは勉強が習慣化するまでの一週間くらいだと再認識した。

習慣化して、とりあえず教科書を一周してしまってからは、問題を解くのがクイズみたいだし、正解したら嬉しい。間違えても知識を詰め込む感覚が心地よかったりする。脳の記憶装置が熱くなる。

勉強は大嫌いだったけど、大人になってそう捉えられるようになってきたのは豊かさのひとつだ。

自分で勉強したいから机に向かう学習と、人から言われていやいや机へ向かう学習は質がまったく異なる。

 

久しぶりの試験は懐かしさもありつつ、新鮮でもあった。たまには勉強もいいかもしれない。

これで試験に落ちていたら、このブログは閉鎖しよう。受かってますように。きっと受かってる。