仕事が終わったと同時に、頭の中に甘い言葉や楽しい言葉、そして喜びの言葉がしっちゃかめっちゃかに湧き出てきて、顔面の恍惚をおさえられなかった。
おれは突入するぞ。ばるんばるん。
跳ねて回るぞ。ばいんばいん。
GOGOGOGOGO!!!
うふぅ~ん♡爆乳でキレる女子高生。
露わなりぃ~!
風。おれは、風になる。
そういった、実にわけのわからない想念が渦巻き、私は定時と同時にオフィスを飛び出してエレベータに駆け乗って、エレ兵衛には私一人だったので、がたがた揺らしたり跳ねたりして止めてやろうとした。
なぜこんなに落ち着きがないのか?
夏バテだろうか?脳炎の類だろうか?
ちがう。
私はたった今から「夏休み」だからだ。
うちの職場の夏休みはシフト制で、私は新人一年生ということで、どこで夏休みをとるか選ぶ権利などなく、8月の末日より夏休みとなってしまった。
それでいい。
だいたい、アホな学生共がうようよしている盆に夏休みを取ってなにが楽しいのだろう。アホが伝染(うつ)るだけだ。宿題ちゃんとやれよバカ。私みたいにはなるな!
職場の人たちは遅めの夏休みをとる私に「いいなぁ」と言っていた。「もう一回夏休みほしい」などと垂れている。
愉悦。
圧倒的、愉悦。
皆さんが残業している中、どうどうとオフィスを後にして9日間の休みに突入する私は、久方ぶりの愉悦、悦楽、絶頂を迎えていた。
そういうわけで、すこぶるテンションが高いのだ。
もう、歩いてるだけで楽しい。
はじめて歩いた時みたいに、何もかも新鮮で味わい深く、刺激的だった。歩くっていいいなぁ、と無駄にちょっと走ってみたりもした。そんですぐまた歩いた。
笑顔が止まらない。
笑顔がそのまま顔面から剥がれ落ちて地面に吸収されたら、その養分を吸い取った付近の植物は一斉に咲き誇り、その蜜を飲んだ虫たちは種類をまたいで交尾し始めそうなほど、ハッピーだった。血吸い(蚊のこと)に刺されたってへっちゃらだった。殺しはしたけども。
口笛を吹きたくなった。口笛とはこういう時に吹くものだ。いつ吹くか?今でしょ。
林修のようなおちょぼ口を作り、軽快に吹く。吹こうとした。だが。
吹けなかった。
なぜか、音が出ないのだ。
「ひゅほーっ、ひゅほーっ」と、結核患者の肺の音みたいな冷たい音しか出ない。
私は急に、口笛を吹けなくなってしまったのだ。
ついこの間まで口笛くらい簡単に吹いていたし、私は口笛で「エトピリカ」を吹くのが得意だったのだ。風呂場で吹くとさながらオーケストラのようだったのだ。
それが急に吹けなくなった。
なぜか?
原因は全くわからない。肉体が知らないうちに口笛を吹けないかたちに変貌してしまったのだろうか?
こんな素晴らしい時に口笛が吹けないでどうする。
あと口笛を吹く場面といえば可愛い女の子とすれ違ったときくらいだが、これでは女の子とお茶を飲むことすらできないだろう。ひとりで酒をあおるしかない。悲しい。
怖くなった。
口笛を吹けない、意味が分からなかったからだ。
これで口の中に出来物があるとか歯がすべて無くなってしまっているなど理由が明確であれば、ああと納得できるのだが、あいにく私は健康体そのもので、若干の寝不足があるくらいのもの、口笛を吹くくらい当然朝飯前のはずでなければならないのだ。
口笛を吹けないだけで、心が下降気味になった。
夏休みだぞこっちは。無敵なんだぞこっちは。
あらゆる不幸をものともしないんだぞ……。
帰りに猫の死骸を見た。
夏休みがはじまる。