蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

発達障害の妹について。『アルジャーノンに花束を』を読んだことについて。

  実を言うと、私には妹が一人いて、彼女は生まれながらの自閉症である。

 発達障害だ。

 彼女とは年子なのだけど、はたして彼女が幼少の頃の記憶を、私は持っていない。記憶に彼女が出てくるのは、私が小学校に入って以降のことだ。それまで彼女は私の中に存在していない。

 ひどいことだと自分でも思うけど、仕方がない。幼少の頃の妹はまったく言葉を発さなかったし、泣きもせず笑いもしなかったからだ。母の話によると、妹はいつもソファの角に座っていて、そこに座らせていると一日中動かずにそこにいる子どもだったらしい。そんな存在感のない妹を記憶していることは、幼い私には難しかった。

 

 発達障害だとわかったのは彼女が小学生になってからのことだ。

 はじめ、家族はそれを認めることができなかった。

 他人よりも覚えが悪いだけで、ちょっと成長が遅いだけで、健常者なのだと父は言い張った。おれの子どもが「白痴」なわけない!と怒鳴っていたのを覚えている。

 だけど、病院で検査をしたり、発達障害に関する講演に参加したり、本を読んだりするうちに、そこに登場する症例のすべてが妹に当てはまることが露わになり、認めざるを得なくなった。そこまでに3年くらいかかった。

 また、ついでに母も自閉症であることがわかった。

 父は母に「お前が自閉症だから、妹も自閉症になったんだ。お前のせいだ」と言い放って、他に女を作って家庭から目を背け、どこかへ去ってしまった。この言葉が呪いとなって、今も母を苦しめている。父は今年の2月に死んだけど、もう少しはやく死んでもよかったと思う。

 

 母と妹の症状は重いものではなく、ふつうに話もできるし、見た目も健康そのものなのだが、ちょっと物覚えが悪かったり、普通の人には簡単にできることがとても難しかったり、感覚過敏だったり痛みに対して鈍麻だ。また、文脈と言ったものがわかっておらず、すこし空気を読めないところがあるかもしれないけど、些細なことだ。空気を読めない人間なんてもっと酷いのはたくさんいる。

 だけど、病気であるから、やっぱり生きづらい。

 ふつうの学校や社会ではどうしてもその速度について行けず、価値観も母と妹にはそぐわなかった。母はこれまで苦労してきたし、妹も苦労している。

 

 可哀相だといつも思う。

 私だって優秀な人間じゃなくて物覚えも悪いし怠惰だけど、やろうと思えばできないことはほとんど無い。そこが病気であるかないかの違いだ。妹は「できない」のだ。「不可能」なのだ。できたとしても、私が1週間かけて習得することが妹なら1年もかかってしまう。

 

 大学生の頃、発達心理学の授業を受けて、自閉症について学んだ。

 むかしはアスペルガーと呼ばれていた病気は、現在自閉症スペクトラムと呼ばれている。

 感覚過敏について、たとえば蛍光灯の光が苦手だとか、飛行機や車の音、大きな音、高音が苦しいだとか、健常者ならほとんど気にならないことが彼女らをひどく苦しめる。そういった環境の中にいると失神してしまう人もいるらしい。それは健常者にはわからなくて(仕方ないことだ)、そのズレがまた自閉症児への差別や迫害を生む。「あの人はそういう病気なんだ」と理解が広まれば違うかもしれないけど、そんなのは病気ではなく甘えだと認めない人間もいるだろう。父のように。

 

 たとえば車の音がどれだけ自閉症児を苦しめるのか、先生は教えてくれた。

「黒板を爪で引っ掻く音が好きな人はいないでしょう」先生は黒板をすこし引っ掻いた。

 ほんの少しなのに学生は顔を歪め、「うわっ」と声が上がった。

「これを耳元で10分でもやられ続けたら、皆さんどうなりますか?……音の感覚過敏の苦しみは、つまりそういうことです」

 そりゃ失神もする。

 

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 妹は、人生を懸命に生きている。

 お勉強はできないけれど、少しでもいい成績をおさめようと必死に勉強しているし、半年以上留学した経験があって、英語だって喋れる。私なんかよりよっぽど世界を見ている。

 ただ、努力が実ることを彼女はまだ知らない。

 努力が実るまでには、ふつうだって時間がかかるものなのに、彼女の場合、さらにはてしない時間がかかる。彼女は「達成」を知らない。「成果」を味わえない。

 それでも、目の前にあることを頑張って取り組んでいる。その姿に、胸がぎゅっとなる。

 彼女は……たとえば私が傷ついているときにさりげなく励ましてくれたり、笑いをもたらしてくれるし、料理だってできるし、母が海外に出かけているときなんて私よりもしっかりしていて家事をこなしタスク管理をする。

 悲しいニュースに心から怒り、悲しみ、嬉しいニュースは他人のことだって自分のことのように喜び、自然の美しい景色を何度見たものだって初めて見るように感動し、植物の名前をいくらだって知っていて、花を愛で、動物を愛していて、困った人がいたら躊躇せずに必ず助ける。

 私が知っている中で、いちばん美しい人間だ。

 どこまでも無垢で、純粋で、彼女の悪意はいちどだって見たことがない。悪意に見えるものは病気による「できない」ことを恥じて隠そうとしているだけなのだ。

 妹は私よりよっぽど強いし、頼れるし、しっかりしている。

 怠惰に見えることは、「怠惰」なのではない。「できない」のだ。掃除や整理整頓やエトセトラ。

 

 妹が多くの人から愛されて、幸福を享受できればいいと思う。悪い人に騙されたり、貶められたりしませんように。もしそういうことがあったら、兄として、そいつを殴りに行かなきゃいけない。

 

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 前置きがかなり長くなってしまったけど、アルジャーノンに花束をは手術によって発達障害を「治療」した主人公チャーリィーと実験体のネズミ・アルジャーノンのお話である。

 チャーリィーははじめ、ネズミにクイズで負かされるほどの知能だったが、手術の効果が見え始めると、20か国語を数日で習得できる天才になり、数々の学術論文を発表するようになる。

 しかし、その知識の習得とは裏腹に、チャーリィーは孤独感を深めていく。

 障碍者だったころのチャーリィーは美しい心の持ち主だったのに、天才になってしまったらまるで愛を失ったみたい。作品の中でチャーリィーはこう語っている。

 

 「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです……」

  

 

 チャーリィーは過去の自分(白痴だったころの自分)の記憶、傷み、そして呪縛と向き合いながら、自分に足りないものを探ろうと苦心する。

 本当に大切なことは何だろう?

 その答えは奇しくも、物語の最後で、チャーリィーの書いた「経過報告」で示されることになる。そしてそれはすでにタイトルが教えてくれていることだ。

 

 そして、その大切なことを、私は妹を通じて知っていた。

 

 

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 余談だけど、ふだん考えていることとして。

 障碍者が肉体のことで生き難いのは、残念ながら仕方がないとして少しでもそれを和らげる方法があればいいのだが、社会の制度や世間の目などそういった要因で障碍者が生き難いのは、よくないことだ。なぜなら、そういった人間同士の苦しみは、人間で解決できるのだから。二次的な被害は、周囲の人間の「理解」でいかようにも解決できる。

 そうするには、私たち「理解する側」もある程度の忍耐を必要とするだろうが、それがどうした。「理解される側」の苦しみに比べれば。