哲学的ゾンビという学術用語がある。
あえて難しく説明すると、哲学的ゾンビ(てつがくてきゾンビ、英語: Philosophical zombie、略: p-zombie)とは、心の哲学で使われる言葉である。「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」と定義される[1]。
簡単に説明すると、「意識」のない人間のことである。
簡単に説明したところで意味はわからない。さて意識とはなんだろうか、それを説明できる人は少ないし、私は説明できない。
オモコロでダ・ヴィンチ・恐山さんが漫画の表現技法を用いて比較的わかりやすく哲学的ゾンビとはなにか、「意識」とはなにか説明してくれているので、下記リンクで興味のある人は読んでみてほしい。
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たとえばフィリップ・K・デリックの傑作SF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に登場する「アンドロイド」がそうなのではないかと思われる。
ずいぶん昔に読んだのでうろ覚えなのだが、アンドロイドは外見も質感も挙動も丸きり人間と同じで、過去の記憶をプログラムによってインプットされており、悲しいことがあれば泣き、嬉しいことがあれば笑い、外見に発露される感情のようなものを持ち合わせてはいるが、ただひとつ人間にあって彼らにないものとして、言葉では説明できない共感意識のようなものやそういった感じのなにかを欠如している。
ぜんぜんうろ覚えで、勘で書いたので、間違っているだろう。
ただ、私は昔この小説を読んだとき、「哲学的ゾンビだ」と思ったことを覚えている。
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私が思うに、意識とは、「感じ」なのだと思う。
なんだかちょっとイイ感じ、の「感じ」だ。
夜の学校の廊下は不気味な感じがする、の「感じ」である。
秋のにおいの感じ、一人で食べる冷たいコンビニ弁当の感じ、そういった「感じ」のことだ。
わかりにくいだろうけど、そうとしか説明できない。
そう「意識」を捉えるとするならば、あなたの身近に潜んでいるかもしれない哲学的ゾンビを見分けることができるかもしれない。
客観的に「意識」のない人間を見分けることは不可能とされているし、哲学的ゾンビ自身も自分に「意識」がないことを知覚することはできない。なぜなら、その欠如を感じる「意識」もまた無いからだ。
そんな哲学的ゾンビを見分ける方法とは何か、それは音楽であると私は思う。
音楽は、最もプリミティブ(原始的)な芸術である。
そして最も直截的な表現方法だと思う。
素直に音楽を捉えるなら、音階の羅列でそれを奏でる人が(または作曲者が)どんな心持だったのかわかるものだ。楽しいのか、嬉しいのか、悲しいのか、絶望なのか。
その「感じ」は聴く人の気分をコントロールするが、哲学的ゾンビだって音楽を聴けば感情の形が変わるだろう。意識とは感情ではない。「感じ」だ。
だから、哲学的ゾンビに作曲をさせてみれば一目瞭然なのではないか。
「喜びの感じ」を作曲して見ろと言って、彼らはそれができるのだろうか?
もっと言えば、「月の光の感じ」を作曲しろと言って、ベートーベンやドビュッシーのような曲が作れるだろうか?聴く誰にも「月の感じ」を惹起させる曲が作れるだろうか?
作れないのだ。
なぜなら、その「感じ」がわからないのだから。
田園の感じ、威風堂々の感じ、夕焼けの感じ、海の感じ、星空の感じ、流星群の感じ、愛の感じ、そういったさまざまな「感じ」に対してゾンビたちは無防備で無意識だから、作れるわけがない。
だが、書いていて気付いたのだが、この判別法には欠点がある。
それは、多くの普通の人間がベートーベンのような作曲家ではなく、曲を作ることが難しいという点である。
ふつう、作れないのだ。
おしまい。セルフ論破で解散。