蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

なぜ「文学」を読むのか

 昼休みに会社の先輩と話してて、先輩が「蟻迷路はどうして文学小説を読むの?おもしろいの?」と訊いてきた。

 私は答えに窮した。

 そして答えた。

 

 「ぜんぜん面白くないです」

 

 「夏目漱石とか川端康成を読んだ後に、最近の大衆小説を読むと面白くてしかたがないです」とまで言った。

 

 いま私は漱石三四郎をあらためて読んでいる。

 読んでいて思うのが、漱石はこれを「面白い」と思って書いたのかな、ということだ。

 物語に起伏はなく、抑制された文章で、主人公・三四郎の日々が語られているだけである。

 令和のこの時代にこんなの書いたら、たとえばカクヨムとか小説家になろうといったインターネッツ小説投稿サイトでは読者がつかないだろうし、仮に芥川賞を獲ったとしてもそこまで話題にならず多くの現代純文学作品と同じように、時間と共に忘れ去られてしまうだろう。

 と、自分で書いてもいないのに酷い言い草だけど、そうなんだろうな、と納得してしまうのは、現代人のほとんどが『三四郎』を読んでいないことからもわかる。

 夏目漱石の作品だから現在も発行されているというだけなのだ。

 内容はまったく面白くない。

 ハラハラドキドキしない。要するにここにおける「面白い」とはエンターテイメント性ということである。

 

 それなのにどうして私は『三四郎』を読むのだろう?

 三四郎の行動一つ一つに、「おいおいしっかりしろよ」とわざわざ思うのだろう?

 疲れる読書をするのだろう?

 

 結論を述べてしまうと、私は物語を楽しんでいるのではなく、文章を楽しんでいるのだ。

 小難しい言い回しだったり、これ以外にはあり得ないと思わせる的確なメタファーだったり、文体のリズムや時代性のある「書き方」、句読点の位置、抑制された均衡のとれた文章の「構築」を楽しんでいるのだ。

 優れた文学作品は、内容以前に文体が優れている。

 その作者にしか書けない文章が綴られている。

 それが読んでて「おもしろく」て仕方がないのだ。

 

 文章を文章としてこのように楽しめるようになると、たとえば会社のメールなんかも読んでいて楽しい。とくに入り組んだことを説明しようとしたメールは読んでて和む。

 ああ、断腸の思いでこの位置で改行したんだろうな、とか、わざとここは漢字を使わずにあえて平仮名で書くことで読みやすくしたんだな、とか気付くと面白いのだ。

 仕事中にこんなことを考えてメールを読んでいるから、内容が全然頭に入ってこないで、今日もひとつミスしてしまった。本末転倒だ。

 

 この文章を楽しむ感覚を読書しない人に伝えるのは難しい。

 たとえば音楽でメロディを楽しむのではなくギタリストのソロプレイに耳を傾けているようなものなんです、そう説明してもいいけど、あまりしっくり来ていない喩えだ。でも敷衍(ふえん)して言えばそういうことだと思う。

 だいたい、こんなことを非読書人に言うと、彼らは「おーおー、高尚なことでありんすね。ええ、ええ、どうせあたくしは読書をしない非文化的な俗人ですよ。頭脳を使わない馬鹿者ですよ」と言わんばかり眼差しを仕向けてくるので(そんなことない)、私はその説明をするのを厭う。

 お高くとまっているわけじゃあない。

 だから劣等感をおしつけるんじゃあない。

 

 大衆小説の「面白さ」と文学小説の「おもしろさ」のベクトルが違うのだ。

 チーズとチーズケーキくらい違う。