蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

なんでも食べれる気がする

 腹がすいてるわけじゃない。

 人間が食べているものなら何でも食べれる気がする、というお話だ。

 

 私たちは普段、スーパーに並ぶ肉やお魚や野菜を食べ、あるいは畑で採れた新鮮な野菜や山で採ったキノコや山菜、銃で殺した鹿などを食べている。

 しかし文化が違えばスーパーに並ぶ食材も珍しいものとなる。

 私たちが当然のように食べている生卵やタコは西洋では忌み嫌われて生では食べないらしい。生魚だって刺身で食べないらしい。

 不思議な事のように思うけど、これが文化の違いである。

 同じように、私たちは毛虫をすり潰してスープにして飲まないし、ひな鳥の茹で卵を食べたりしない。そういう食文化は奇妙だと思う。これが文化の違いである。

 

 YouTubeディスカバリーチャンネルベア・グリルスエド・スタフォードがサバイバル生活の中で幼虫や昆虫を発見すると「貴重なタンパク源です」と言って捕まえて何の調理もせず喜んで食べている(そして顔をしかめる)。

 そういうのを見ると、ああそれ食べれんだ、と感心する。

 ある文化圏ではそういった昆虫がごちそうになり、焼いたり煮たりあるいは干したりして調理を経て食べられる。それを知ると、ああ本当に食べれるのだなぁと思う。

 

 もしも私が異なる文化圏の民族のお宅に突撃!となりの晩御飯的行為をしたとして、そういった昆虫の料理が出され歓迎されたとしたら、有無を言わず喜んで食べるだろう。

 いやいや、口で言うのは簡単だけど、と皆さん思ったはずだ。思ってない?思ってない人は、思ってください。

 皆さんが私の想像に対して否定的意見を持つのはわかる。私だって実際にそれを目の前にしないとわからない。

 だけど、深くその光景を想像してみても、やっぱり私は食べることができると思うのだ。

 

 人間が食べているのだから食べれるに決まっている。

 ごちそうだと言うのならありがたいに決まっている。

 

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 そういったちょっと非日常的な食材を食べてみたいと常々思っている。

 2月に大学の同期と上海に卒業旅行に行ったのだが(私はその直前に父が死んだ行けなかったため行っていない)、その際にむこうで鳩の丸焼きを食べることを楽しみにしていた。

 鳩なんて普段は食べない。公園をポッポポッポしていても食べようとは思わない。

 だからこそ、食べたいと思った。

 食べたらきっと、世界の見方が変るからだ。鳩を食べない人生がずるずる続くのは勿体ないことのようだ。

 旅行に行ってきた同期に「鳩美味しかった?」と訊くと、彼らは食べなかったらしい。

 「食べたがってたのはお前だけだったから」と言わんばかりであった。

 勿体ない人生だ。現状に満足しているのだろう。良いことだ。

 

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 話は少し変わるが、ますむらひろし氏の漫画アタゴオル玉手箱』という作品が好きだ。

 

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 作中で主人公のヒデヨシは次のように言う。

 

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 「汝 土の味を知らずしてこの星を語ることなかれ」

 

 沁みる言葉だ。

 まったくその通りのようでもあるし、そんなことないような気もする。

 でもなんか、この言葉は本質を突いているような気がする。

 たとえばなにか物について語るときに、それの味すらも知らないのに何を知った気になっているのだろうと思うと、一歩引いた視線でその物を評価できるようになる。その物の味に限らず、ニオイや肌触りや、それが部屋にあったと考えてみたときの感じなどもそうだ。

 私たちは何を知っているのだろう?何も知らないのではないか。

 

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 いろいろな食べ物の味を知っておいた方がいい。

 世界はきっと広がるし、視点が増えるし、異文化に対する考え方にゆとりができそうだ。

 その国の料理を食べずして、その国を語ることなかれ。

 味わい深い人生にしよう。