しばらく前からドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読みはじめた。
底辺文士たるもの、『カラマーゾフの兄弟』くらい読んでないでどうするんだ、と思い、全3巻のうち上巻だけとりあえず買った。
『カラマーゾフの兄弟』は『白鯨』とか『ユリシーズ』とか『失われた時を求めて』あたりの「長くて難しい小説」に並べられる機会が多い気がするので、ちょっと肩に力を入れて読みはじめたのだが、漱石の『三四郎』や馬琴の『南総里見八犬伝』に比べたらずっと読みやすく、内容もわかりやすいのでびっくりした。
翻訳が良いのだろう。
こんなのすぐ読み終わっちゃうよ。
邪悪な父親が中心となり兄弟がいろと苦労したり争ったりすんだろうな、と甘い見分でとりあえず読み進めていった。
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登場する「邪悪な父親」が、読むほどに私の父親だった男にそっくりで、なんだか吐き気を催す。
道化師っぽくて、卑怯で、人を傷つける嘘で事実を捻じ曲げて嘘を真実にしてしまい、いつだって自分が被害者で物見高く、人を陥れるのに容赦しない。
おれの父じゃん、てなった。
なんだこいつ、ムカつくなぁ……と思いながら読むけど、だんだん憎悪が膨れ上がっていって、読むのが苦痛になってくる。
私の父もフョードル・カラマーゾフという父親像も、私の一部分なのだ。
重い話を読んでいると気分が下がり、ただでさえ仕事の存在で気分サゲサゲなので読む気も失せ、いったん中断して土屋賢二さんのエッセーを読み、げらげら笑うなどした。
土屋賢二さんは敬愛するエッセイストだ。稚拙なことを高尚な笑いに昇華する文章は敬服に値する。
土屋先生のエッセーを読み終わり、そろそろカラマーゾフに戻るか、とやめた箇所から読み直すと、ところが話が全然頭に入ってこない。
何が起こったかというと、登場人物の名前を忘れたのだ。
「フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフは……父か……で、このイヴァン・フョードロウィチ・カラマーゾフが……次男ね……長男のドミートリ―とは母親が違くて……ドミートリーはミーチャと呼ばれてて……あれ、次男はなんて呼ばれてるんだっけな……アリョーシャか、いやアリョーシャは三男か……」
などといちいち前に戻っては登場人物の立ち位置を確認し、どういう生い立ちでどういう性格になったかを確認しなければならない。
こんなことしていたらすぐに嫌になるので、メモを残す。
そうしてちびちび読み進めていたのだけど、テレワークになってから仕事がウルトラハードになり、仕事が終わると一文字も文字を読みたくなくなってしまった。
こんな状態でカラマーゾフなんて読めない。
もう一週間も読んでないのだ。本すら読んでない。読んだ方が精神衛生上よろしいのかもしれない。けど読む元気がない。
さて、読み直すにしてももう一度最初から読み直した方がよさそうな気もする。
長大小説を読了するのが苦手なので、ここでひとつ『カラマーゾフの兄弟』くらい読み通しておきたいのだが。