蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

見たままの真実、感じたことがすべて

にしたものをそのまま受け入れる姿勢は素直でよろしいけれど、ときには疑いを持つ心意気や、考えを察するある種の「読解力」がないと、残念だけどこの世界ではうまくやっていけない。

ひどい詐欺に遭うかもしれないし、うまく立ち回れず混乱に陥るかもしれない。どの世界でもどの時代でもそうだが、悪意や失念は思いもかけないところから腕を伸ばしてあなたの足を厚い泥の中へ引きずり込むだろう。

だから誠意を持ちつつも、いろいろ考えたり、「なぜ」の電球を常に心の内に灯らせておかねばならない。

 

 

その点、小説は良い。

書いてある文字こそが真実なのだ。

基本的には裏を読んだり疑いを持たなくても充分楽しめる。

 

もちろん、文章として表れてきていない部分を考察したり、行間を読んだり、作者の半生を踏まえて何をテーマとしているか考察、メタファーを分析、論文として考えをまとめて作品を再構築するような楽しみ方もあるし、学生時代はひたすらそんなことを図書館に篭ってやり、他人の発表を見てきた。

そういった楽しみ方をするクセがつくと苦労する。

何を読んでも、いや、文章に限らず映像でも音楽でも、どういう意図があってこの単語を繰り返すのだろうとか、この比喩は何の表象なのだろうとか、いちいち考えてしまって疲れる。一歩一歩立ち止まり、意味を考え、考察しないと、読み進めていくうちに自分が道を踏み外して作品から逸れたところへ行ってしまうのではないかと不安になる。実はこうしているとき、作品から離れつつあるのかもしれない。

 

疲れるので、私はモードによって作品の楽しみ方を切り替えてる。

 

めちゃくちゃ考察したいときは、ひとつひとつセンテンスを拾い上げて、参考資料を参照してみたり、文献を漁ってみたり、関連資料を探したりする。ひとの考察ブログを覗くこともある。

そうでないとき、つまり、作品を作品として楽しみたいときは、作品を見たまま、あるがままに受け止める。

先日『シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 』を観てきたときもモードを「らくらく」に切り替えて、あらゆる考察を排除したことで、混乱せずにあるがままを受け止めて愉しめた。

 

 

村上春樹の小説はメタファーに富み、はっきり言って意味不明な状態に陥ることがよくある。ファンタジーなのかわからないけど、不可解だったり不合理なことがよく起こるので、『1Q84』とか『ねじまき鳥』を最初に読んだ人は驚くことだろう。

突然妻が失踪したり、月がふたつになったり、井戸の底に潜ったりする。

宮沢賢治の童話はあらゆる暗示に富んでいて、時には教訓もあるけれど、ひとつひとつの出来事を解体してみても、底にあるのは賢治の詩的カオスである。

 

小説は、読んだまま、見たままの世界を受け止めて良い。

なぜなら、そこに書いてある「文章」こそが小説世界ではリアルで、事実で、真実だから(ゆえに小説は虚構が綴られていても嘘は書けない)。

 

読んだままの感想で良い。評論じみてなにか考察しなきゃ悪いなんてことはまったくない。

おもしろかったか、つまらなかったか、よくわからなかったか、そんなことでいい。

 

「メタファーの暗示するところはよくわからないけれど、文章の流れが綺麗だったし、表現はユーモラスだった。結局どうなってしまうのか、うまく説明はできないけれど、読後、心の中になにか残るものがあった。あたたかい気持ちになった」

そんな漠然とした感想で良い。

文章は書かれた文字が真実で、読書はあなたの心に残った印象が真実なのだから。

 

小説読書の目的は必ずしも「理解すること」ではないと思うのだ。

見たままの真実に感じたリアルを面白がる、原初的な物語の楽しみ方が、今はしっくりきている。