一昨年、我が家の二頭の犬が去ってから家庭内環境は悪化を辿る一方であった。
いなくなってから半年もすれば慣れるものだろうかと思っていたが、淋しさは増悪して歯止めが利かず、たとえば信号待ちの時間にふと犬たちのことを思い出して、あのにおいとか呼吸とか毛並みとか笑顔とか面白かったことを思い出しては、涙ぐむ日々が続いていた。
自分の死に救いがあるとすれば、あの世で可愛いあの子たちに会えるというそのことだけだ。そしてそれで充分だ。
特にこの一年間は父だった男の死のせいでやたらと面倒なことが立て続けに起こり、現在も父の最後の妻となる3人目の奥さんが毎日家に押しかけてきてインターホンを鳴らしまくるなど常軌を逸した状況が続いていて、はっきり言って家庭内は病んでいる(このことについてはいずれ機会を改めて書きたいが、警察沙汰になる可能性が充分にあるので公表は遠い未来になるかもしれない)。
こういうときこそ、病んでいるときこそ、犬たちが必要であった。
癒しが必要であった。ぬくもりが必要であった。
ぬくもりが必要なのだ。
そんな、完全に人間の都合による理由で、私たちは猫を飼うことに決めた。
二匹の保護猫である。
理由が「犬がいなくなって寂しいから」なんてエゴだけど、仕方がない。この世の中はあらゆる都合によって成り立っているのだ。
でも、犬たちを忘れたいわけでもないし、猫を道具にしたいわけでもない。
猫と一緒に暮らしたい、ただそれだけなのだ。
ちなみになぜ保護犬にしなかったかというと、妹が犬アレルギーになってしまったからである。
猫たちは2月に我が家にやって来る。
私たち家族は、これから増える家族について、まずは名前を決めようと日夜会議をしている。
私は村上春樹が好きなので、氏の小説タイトルから「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」ちゃんにしようと提案したが、却下されてしまった。
格好良いのになぜだ。
「動物病院で、その名前で呼ばれることになるんだよ?猫たちの気持ちもようく考えてみなさいよ」妹にそう刺された。
格好良いじゃないか。
「お兄ちゃんはなんでもオモシロければ良いと思っているけど、それは間違っている。もっと世間を知った方がいい」
妹は大学生になってから言葉に含蓄を富むようになった。よく勉強している証だ。兄は誇りに思う。
と、こんな感じで案を出しては却下、採用、また却下が続き、議論の余地しかない。
「なんかさ、格言とか諺(ことわざ)から名前を取りたいね」私は言った。
「猫に小判」
「豚に真珠」
「猫に関連性のある名前がいいよ」
「じゃあコバンちゃんかな」
「いいねそれ」
こういった感じで話はすすんでいく。
「モカリちゃんはどうだろう」私は言う。
「なにモカリって言いにくっ」妹が疑問を呈す。
「猫の手も借りたい、からとって、モカリ」
「どうせそのうち『モカ』になるよ」
「じゃあ、羊(ひつじ)ちゃんはどうだろう」
「は?」
「羊って、かわいいじゃん。あたたかいしさ」
「え?猫だよ?」
「うん」
「狂ってるの?」
「そうかもしれない」
「かもしれない、じゃねぇよ。そうなんだよ」
「羊羹(ようかん)」「ビスク」「テンキー」「ほら貝」「剣(つるぎ)」「アマデウス」「この世の限り」「ミシマ」「@」「XYZ」「バナナ・パンケーキ」「吾輩」「88」「リトール」「猿楽(さるがく)」「影裏(えいり)」「スノーマン」「ストーンズ」「未華子」「シャルル」「チーパ」「リラゴ」「ローゼン」「雪影」「アンコウ」「センパイ」
名前の案なんていくらでも出てくる。
こうやって、花開く未来について思いを馳せることは楽しく、名前を考えている時間が愛しい。
思いのほか私は猫をすごくすごく楽しみにしている。