禁煙することにした。
おとといの朝、胃液がせり上がるのを堪えながら煙草を吸っていて、こんなのもうやめよう、と思った。
やめるにはタイミングが必要だ。
やめるのに必要なのは意志でも医師でもなく、タイミングなのだ。煙草にはやめるべきタイミングがある。スパゲティを湯から上げるタイミングがあるように、早すぎてもいけないし遅すぎてもいけない。
焼けるような朝の苦痛の中で、私は、煙草をやめるぞ、と決心した。もう金輪際、やらん。そう決めた。
そう決めたけど、残りの煙草が惜しいので、これを最後の1箱にすることとした。箱にはまだ4分の3ほど入っていた。
おおよそ2日で1箱消費するので(遅い方だろう)、私の喫煙人生も残り1日半ということになる。24歳なので、短い喫煙人生だった。煙草をやめることと大学を卒業することなら煙草をやめるほうが難しいだろう。私は久しぶりに「困難」に立ち向かおうとしている。
なぜ唐突にやめようと思ったのか。
ひとつの契機になった出来事が先日の夕方にあった。
会社の外の喫煙所に行ってみたら物凄い突風が吹きさらしていた。ビル風も相まってちょっとした竜巻の中みたいだった。おまけにすごく寒くて身が縮み、なんだってこんなところで煙を喫まにゃいかんのだと半ば憤った気持ちでIQOSに電源を入れた。
あたりの人々も襟を立ててポケットに手を入れ、髪の毛を風に巻き上げられながら、背中を丸めて必死に煙草をすぱすぱやっていた。険しい顔をしている人もあれば泣きそうな人もいたし、滝修行をしているような顔つきの人もいた。祈りのようでもあり、虐待に耐える少数民族のようでもあった。
なにか試されてるのではないか。そう思わざるを得ないほどの風と寒さだった。
自分も背中をぎゅんぎゅんに丸め空気抵抗を削減する姿勢でメンソールをやっていたが、そこにあったのは楽しさでも癒しでも涼しさでもなく、辛苦と厳しさと寒獄であった。
メンソールは涼しくやるものだ。
煙草は心地よくやるものだ。
砂漠で水に飢えたように吸い求めるものではなかったはずだ。私が求めた喫煙は滝修行でも民族浄化でもなかったはずだ。
その風の中の喫煙所の様子があまりにも滑稽で馬鹿らしく、自分の求めていた喫煙行為がそこにはなかったことと、私が好きだったのは煙草ではなくて煙草を喫むということだったのだと気付いて、それからなんとなく煙草から心が離れていった。
そしておとといの朝、私はやめる決心をした。それは明白なタイミングであった。
仕事終わりに例の喫煙所で最後の一本を締めた。
どうしてかわからないけど、これで最後だという気がしなかった。
いやいやいやいや、これで最後なんだよ。
これを機にやめようよ。煙草が原因で死ぬなんてばからしいこともないよ。恋人が悲しむよ。煙草で得たものと失ったものを秤にかけてみろよ。考えなくてもわかるだろ?
うん。
うん。
煙草を喫みたくなったら、とりあえずここに書いていくことにする。
あ~~~~~~~~~~~~~~~~~
あ~~~~~~~~~~~~~~~~~