幼いころから、父に少しずつビールを飲まされていた。
「泡だけ舐めとけ」なんぞ言われて、苦い泡を舐めていた。
その「訓練」の甲斐あってか、成人してからビールにさほど嫌悪感を持たずぐびぐび飲めたのだが、周囲の同志を見ていると「ビールは苦手」という人も無論多く、その理由のだいたいは「苦い」であることに、ビール好きの私としては憤りを感じるどころか「苦いよなぁ」と首肯してしまうのであった。
自分で今こうして飲みながらブログを書いているけど、こんな飲み物のいったいなにが美味しいのだろうと思う。
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ところで、仕事終わり家でビールを飲みながら個人的なブログをしたためている、春の雨の音を聴きながら、なんて良い趣味だと思う。
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成人の誕生日の午前0時、私はコンビニにビールと煙草を買いに走った。
深夜の公園で、生まれて初めての煙草をふかし、缶ビールを開けた。カシュッ、と響いた乾いた音に、大人の目覚めを感じたものだ。
「うん、まずいな」
それが、はじめての煙草と、正々堂々飲んだビールの感想であった。
そのときの「まずいな」という感想は今も抱いていて、煙草(IQOS)をやるたびに「こんなのなにが楽しくて美味しいのだろう。これっきりやめよう」と思うし、ビールは一口目を過ぎれば「惰性」の言葉が喉を通過するだけの、とても好んで飲むものとは思えない液体になる。
だけど、両方ともやめないのはなぜだろう。
私は煙草が好きだし、ビールはもとより酒が好きだ。
煙草と酒がこの世からなくなるということは、幸せというものをいくらか失うことであり、大人になった意味が無いとまで思えてくる。
酒も煙草も駄目な人からしたら私の意見は冷笑に値するものだろうが、知ったこっちゃない。あなたの幸せが私にわからないのと同じように、云々。
ビールのいったい何が美味しくて楽しいのだろう。
私が好きなビールについて考えてみる。
私の好きなビールは仕事帰り行きつけの中華屋で飲むビールだ。
搾菜(ざーさい)をあてにキリン・ラガーの中瓶を冷えたグラスでちびちびやるのがうまい。
瓶から注ぐとき、トクトクトクと音がして、これをなにかに喩えたいと思うものだ。私はそういうときだけ詩人になりたい。
薄い橙色の電燈は油で染みができていて、ビニールの椅子はところどころひびが入っていたりガタガタ揺れたり、店はぜんたい綺麗なものではないが、私は何かそこに美しいものを感じ取る。
むかいの席にも同じように搾菜とビールでやってるおっさんがいて、お互いにほんの少し目を交わすと、言葉もなく「お疲れさまです」と情が触れ合う。ひとときの縁にこそ温かいものを抱いてしまうのは、どこか愚かで愛おしい。
トクトクトクトク、、、ちびちび飲みながら、チャーハンを食らう。
食らいながらふと、飲みながらふと、いいものだなぁ、と思う。
いったいなにがいいのか、説明するのは野暮かもしれない。
結局のところ、ビールを飲んでいる時間が好きなのだろう。