散歩していたら背後で叫び声がした。
列車が踏切を轟轟と走り、遮断機が上がると、女性が線路わきに蹲(うずくま)っているのが見えた。
私の立つところから踏切までは100メートル弱離れていて、詳しいことはよくわからないし、蹲る人の姿もよくは見えなかった。
遮断機の上がった踏切は動揺の静寂に包まれ、数人の通行人は全員立ち止まってそれを見守っていた。
誰かが、あるいは何かが轢かれたのだ。
助けが必要なら、駆け寄っていくべきだと思った。
だけど、駆け付けたところで自分に何ができるのかわからなかったし、野次馬になるのもよしとしなかった。もしも人身事故だとしたら、それに関わりたくもない。と、冷静な自分が、自分可愛さに制止する。
おそらく、轢かれたのは、人間ではないだろう。
人間だったら、電車は通過することなく止まっていただろうし、遮断機は上がらずにカンカンと乾いた警告音を鳴らし続けていることだろう。
ちょっとすると、蹲る人のそばに人々が集まるのが見えた。蹲る人は、轢かれたなにかを抱きかかえているみたいだった。
なにが轢かれたのだろう。
咄嗟に思ったのは犬だ。そして私には犬以外には思いつけなかった。
まえに犬と暮らしていたので、犬が轢かれたという想像だけでも胸が苦しくなって、怖くなって、私は踏切から視線を返し帰路を急いだ。
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自室のベッドに横になりながら、踏切につづく通りのざわつきに耳を澄ませる。ざわつきと野次馬の声はすぐに落ち着いて、救急車はついに来なかった。やっぱり轢かれたのは人間じゃなかったんだ。
轢かれた生き物は無事だったろうか?
無事ではなかったろう。死んだかもしれない。「死んだ方がマシと言える状態」になってしまったかもしれない。
どのように?どんな風に?
たいへん気になった。そして怖かった。
痛々しい姿を見たら、私は立ち直れなくなるかもしれない。最悪の気分になって昼間から酒を煽り、密造したマリファナを皇居の堀にぶちまけるかもしれない。足の指を舐めようとして骨盤を脱臼させるかもしれない。心がざわついてわけのわからないことばかり考えてしまう。
Twitterで面白い漫画を読んだり、政治論争を読みながら、やっぱり踏切のことが気になってしまう。
むかしうちにいた犬のことを考える。
2頭いて、1頭は賢かったので、信号や踏切を待つことを覚えていたが、もう1頭はとてもアホだったので、走り抜ける車や犬智(けんち)を超えた力を持つ鉄道に向かって喜んで飛び込もうとしたことが幾度もある。幾度もというか、毎回であった。
轢かれた犬も、アホだったのだろうか。
犬や猫は動くものに対し反応する。だから飼い主は気をつけなければならない。首輪を引き締めて、教育しなければならない。
野良猫は自動車や電車のはびこる街中でつねに危険にさらされ、かなりのストレスを感じているらしい。だから家猫も外に出してはいけないのだ。外に出す方がストレスになる。
あの踏切でほんとうに悲しいことはあったのだろうか?
どうか、誰も傷ついていないでほしい。
どうしても、どうしても気になってしまって、しばらくしてから踏切を見に行った。後悔を覚悟のうえで、希望にすがった。
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小さな血飛沫が散っていた。