「なにか楽しい話して」と恋人は言う。
電話しながら会話に尽きると、彼女はそう言う。
「なにかテーマちょうだい」
「……じゃあ、"植木鉢"で」
植木鉢について私が語ることの出来ることはどれだけあるだろう。
「う~~~ん……」
植木鉢について語ることなんてなにもない、と思いながらも記憶中枢をうろうろしていると、楽しい話かどうかはともかく、植木鉢について語ることはなんとか見つかる。
不思議だ。
そうして私は植木鉢にまつわる思い出を、時には大きく回り道をしたり関係ないことも交えて恋人に話す。植木鉢に関する話は、彼女をしんみりとした気分にさせることに成功した。
そのようにして味わう、ゆるやかな夜がある。
次に私も恋人に対して「なにか楽しい話して」とねだる。
「テーマは?」
「うーん、”豚”で」
「豚かぁ……」
恋人はしばし考え込んだのち、豚について彼女の所見を話し始める。あるいはそれは豚にまつわる思い出でもある。
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ヘミングウェイの小説に『なにを見てもなにかを思い出す』というものがある。
これを私が読んだかどうかはともかく(読んでない可能性は大いにある)、タイトルだけはよく覚えている。
街の看板とか空の色とか草の名前とか部屋の本棚の傷とか、ときには誰かの表情の中にも、自分の思い出や記憶があり、あるときには不本意にそれに触れて思い出してしまい、トラウマをつつくことさえある。
人間は思い出す生き物だなぁと気付かされる。
20年もまともに生きていれば一通り目にしたものや聞いたものについて、1ツイート分くらいは語れるだけの記憶を持っているはずだ。生まれてから18年間座敷牢に幽閉されていたり、両親が桃色の象だったりした場合はその例外だろうけど。
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この2週間は、ブログの記事を土日にまとめて書いている。
仕事が忙しく、仕事終わりに1000文字も書く気力が残っていないのだ。だけど、毎日更新はしたい。。。日々のライブ感はなくなってしまうけど、土日に一週間分書き溜めて、指定時投稿することにしたのだ。
どうせ恋人にも会えなくてやることがないのだ。
それに、平日書く気力が余っているなら、そのぶん小説でも書けばいい。
ただ、一日一本の記事でも書くことがないのに、それを5日分も書くことなんてない。
仕事しかない日々の中でなにひとつ発見や感じることなんてない。普段通り猥雑なことや淫乱なことや醜悪なことばかり思い浮かんで、この高潔なブログには適しているとは言い難い。
ここはひとつ、恋人に「なにか楽しい話して」と言ってもらうか。