米国をはじめ欧米諸国で大規模な抗議デモが発生している。
黒人男性の暴行死をめぐる抗議デモだ。
あれだけ普段からメディア演出や表現を規制してまで人種差別に敏感になっていたのは、まだまだ生活に根強い人種差別があったからなのだと気付く。
日本のアニメや漫画は人種差別に対して疎くて、肌の色による表現規制は多くはないし、敏感でもないけれど、そこに決して差別感情が無いというわけではない。
たとえば在日外国人は今や朝鮮系や中国系に留まらず多くいるけれど、そういう日常を共に過ごす他人種が漫画やドラマなどにあまり出てこないのはなぜだろう?
もしかしたら私たちは文化の深くて浅いところで人種差別を「していない」のではなく、「認識していない」だけなのではないか?
もはや「人種」という言葉もナンセンスに思えてくる。
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抗議デモの様子を見ていると、若者が多く参加しているように見受けられる。
世代によって考え方は違うのだなぁとあらためて思う。(ってこれだけで判断するのは早計だが)
私も老人になったら若い人の考え方に合わせていきたい。思想や価値観をアップデートできずに過去の不合理や不条理を「伝統」とか「慣習」などといって押しつけがましく痛みを共有させるのは格好悪い。
昔のことは昔話であるべきだ。
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これだけ大規模なデモになると、たとえば次のような人もいるだろう。
「周りがみんなやってるし、怖いし疲れそうだから積極的に参加したいわけじゃないけれど、参加しないと仲間たちに「お前もあっち側なのか?」って目で見られそうだな……。一回くらい参加しておけばアリバイにはなるよな……。」
そういう心づもりでデモに参加する人が絶対にいる。
これは今回のデモに限らず、どのデモにだっているはずだ。
「うう、どうでもいいよこんな政治問題なんて……。おれは静かに苦しまずに死ねたらそれでいいんだ。いいよ軽蔑してくれて。どうだっていいんだよ。現状維持でいい。関係ない……」
苛烈さに拍車のかかる香港のデモを見ていて、もしそう言う人がいたら結構可哀相だなと思う。
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誰かの怒りや悲しみを語っていいのはその感情の本人だけだ。
当人の感情について100%理解できていない(不可能だ)他人は、慰めたり話を聞くことはできても、感情を代弁して周りに当たり散らしてはいけない。
人間は感情の生き物で、感情は言葉の種となり、やがて周囲を巻き込んであたりを覆いつくす深い森になるエネルギーを秘めているから、他人の感情にも自分の感情にも無責任であってはならない。
だからこそ、今回の抗議デモを見ていて、みんなが怒りを露わにできるほど、それだけ根深い問題なのだなとあらためて痛感させられた。
深くて浅いところで人種差別を「していない」のではなく、「認識していない」だけなのだ。