さいきんはインターネット、とくにTwitterがきつくてあまり見れていない。
よく知らん人の思想が140字という無責任な短文を通して感情的に急激に頭に流れ込んでくることが、耐えがたくなってきた。
会ったこともない人の暗く冷たい情動が無理矢理流し込まれて犯されるような気分になる。
もうやめよっかなぁと何度もおもうけど、やめられないのは、詩とか作品を見れることはありがたく、またサンリオや猫や犬や鳥の日頃の画像や活動写真を見れるし、ネタツイと呼ばれる大喜利ツイートが好きだからだ。災害の情報など有用なものもある。
決して悪い側面ばかりじゃなく、良い側面だって多い。
ようは使い方と向き合い方なのだ。TwitterやSNSは人間関係である以前にただのツールなのだから。そこを忘れないようにしたい。
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少しエッチなコンテンツに文句を言う人に「じゃあ見なければいいじゃん」という反論をよく目にするが、それは論を投げ出してる意見だ。
「見なければいい」ものではなく「目に入ってしまう」から問題なのだ。
そりゃあ、自分が嫌いなものを見なくて済むなら誰だって見ないだろう。そうしたら文句も出ないが、自分の意志とは関係なく「目に入ってしまう」から文句を言うのだ。
まぁもちろん、「性的なコンテンツ」の判断基準は人によって違うから、こうして一概に双方を批判することはできないので、これはあくまでも「性的なコンテンツ」として売り出している物のネット広告などに焦点を当てて述べている。述べているってすごい賢そうな言葉だな。
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この「目に入ってしまう」はツイートにも言える。
Twitterにももちろんエッチなイラストや暴力的なコンテンツが流れてくる。
私は、エッチなものは、なんというか、はは、あらためて言うと恥ずかしいのだけどさ、まぁ、好き、なので、問題ないが、最初にも述べた通り自分とは異なる不快な思想や非難や暴力的な感情も同じように「目に入ってしまう」ので困っている。
他人の「いいね」が流れてくることで、そういった不快なものをフォローしていなくても目に入るし、トレンドで望んでいなくても槍玉に挙げられて目に入る。
そういうときはTwitterを閉じてYouTubeでハリウッドザコシショウのチャンネルを開き、爆笑して「邪気」を祓うようにしている。
じゃあもうTwitterをそもそも見なければいいじゃん、という声も聞こえてくるが、それこそが論を投げ出している意見で、私はTwitterを使いたくないのではなく、使っていきたいのだ。
140字という一目で情報の大まかな部分が掴めてしまうツールでは、「目に入れない」「読まない」ことは難しい。
うまく付き合っていかなきゃいけないけど、これからよっぽど疲れてしまったら、全部投げ出して辞めてもいいかなとも思っている。
いろいろ言いつつも、私だって自分の思想をブログやツイートを介してばら撒いているようなものだから、誰かを批判することはできない。
ようは、ツールをどうやって使っていくか、ということを考えたいわけだ。
ブログは良い。どれを読むか読まないか選択できるから。