美味しいものを食べると、感想も言わずに、ただ無言になってその芸術的な味に心の中で平伏し、感謝し、感無量になってしまう。
目を瞑り、咀嚼の瞬間に一生の時間を込めるように全神経を集中して、どうしたらこの美味しさを言葉にできるだろうかと脳が高速回転をするが、言葉は見つからない。
本物の美味しさや、音楽的感動や、絵画的刺激は、言葉にならない。
私の浅薄な言葉で表現できるほど軽いものではない。
だから目を瞑って、うんうん唸りながら喜びを噛みしめ目尻に涙を浮かべる変な人になってしまう。
恋人はその様子を動画に収めたり、くすくす笑って見守っている。
「どのくらい美味しい?」
久しぶりに、我々のお気に入りの魚介料理屋へ行った。
どの料理もおいしく、たまらない気持ちになるものだが、中でも牡蠣の天ぷらが絶品で、これまでの牡蠣の概念が覆されるほど美味しい。しかも4粒で千円もしない。倍の値段を出したいと思えるほどファンだ。
牡蠣を食べながら心情平伏し料理人と牡蠣と地球に感謝をしていると、恋人が先のことを訊いた。「どのくらい美味しい?」と。
言葉に詰まる。
どのくらい?
かなりだ。なにものとも比べようがない。
この牡蠣の天ぷらは、なんていうか、海、そのものだ。海の恵みそのものだ。海の幸ってよく言葉にするけど、これこそが海の幸だと思う。
「白いご飯がほしくなる」なんてのも誉め言葉としてよく使われるけど、この牡蠣の天ぷらに白飯はいらない。
単体で完結している、完全食だ。
これ以上なにもいらないし、これからなにか差し引いてしまったら瓦解してしまう、完璧な具合の上に成り立っている。
そこまで言って、私は言葉に詰まる。
恋人も牡蠣の天ぷらを頬張る。しゃお、と衣が軽やかに破れる音がする。貝の汁が溢れて口いっぱいに海が広がる。私も食べたばかりなのに「美味しそうだ」と思ってしまう。
たまらず、私も次の牡蠣を頬張る。迷って、ひと口で贅沢に頬張る。
詩を捧げようかな。
ピアノを弾けたらいいと思う。
絵筆を握りたい。
ダンサーになってこの場で踊りを供したい。
この感動をどうにかして、表現したい。その思いでいっぱいになる。
「おれは、この牡蠣を食べると、牡蠣の養殖家になりたいと、思うよ。こういうものを作ることのできる人に、なりたいと思うよ。そのくらい美味しい」
恋人が笑う。
「そっかぁ」と言って笑う。
二人で幸せになろうと固く想う。