蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「自分ツッコミくま」が大好きだってこと

  「自分ツッコミくま」が好きだ。

 

 

 LINEスタンプで見たことのある人も多いだろう。

 このようにTwitterでもマンガを載せていて、しかもほとんど毎日1本は掲載していて、まことにすごいことだと思う。

 食事に関する漫画が多いのだが、たとえば有名店や高級レストランの話題ではなく、「冷凍食品」やコンビニ弁当やコンビニスイーツといった徒歩10分圏内のグルメに関するものが多く、それにまつわる「いいところ」や「こういうのあるよね」という些細だけど誰もが経験のあるような、つい見逃しがちな魅力や、時には「わずらわしさ」に着眼点を置いていて、読んでいると「ああわかるなぁ」としみじみとして、自分が「くま」になったかのような、あるいは「くま」が自分になったかのような感覚になる。

 

 そのくらい細かいリアリティがある。なんていうか、温度があり、湿度がある。

 ディテールが凝っている。だけど程よく大雑把なイラストで想像の余地も残している。

 だからこそ多くの人の心の深いところにある「あるある」を刺激して、毎回数万リツイート&いいね を得ているのだろう。

 

 それでいて「かわいい」とはなにか、「愛しさ」とはどういったものか、を的確に作品に反映しており、リアリティに裏付けされた「くま」への自己投影が「かわいい」のセンスをも現実世界へ浸食させてきて、私の身の回りの些細な事や私自身の行動さえも「愛しくかわいいもの」として認識されるように、視界をも変えてしまう魅力がある。

 

 LINEスタンプやTwitterに載せる漫画を描くことなんて誰にだってできるけど、ナガノさんのようにLINEスタンプのキングになることは誰にもできることじゃない。

 すばらしい才能だと思うし、なによりも継続って力だと痛感する。

 一体どれくらい稼いでいるのだろう?どのくらい忙しいのだろう?

 漫画から見られる食生活に若干の不安を覚えるが……。

 

 あと、「くま」やキャラクターたちがジェンダーレスで、余計な束縛が無いのも万人が楽しめる要素になっている。なんなら人間でもないから人種にも囚われない。

  「くま」に何を言っても仕方がない。「くま」は人間ではないし、彼らが住む世界も私たちと同じ地球ではないのだから。

 

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 作者のナガノさんは別のアカウントで「なんか小さくてかわいいやつ」という作品を連載している。

 「なんか小さくてかわいいやつ」になりたいよね、甘えたいよね、という欲望からはじまった漫画である。

    だが、「ちいかわ」の世界では優しいことしか起こらなくて、なんとなくフワフワしていて、美味しいものがいっぱいあって、怖いことなんてなにひとつない、のかと思ったら大間違いだ。

 

 

 このように、突然「脅威」が襲い来るのだ。

 

 

 

 ぜんぜん和やかじゃないし、一週間に一本くらい「やばいこと」が起こるので更新を待つ間ハラハラする。

 結局最後は丸く収まって無事なのだけど、なんでこんな怖いことが起こるのかよくわからない。

 

 「もぐらコロッケ」と呼ばれる「くま」の一連のキャラクターの漫画にも同じように「脅威」が登場して虐められたり、攫われたりする。

 

 じつはナガノさんの作品世界には、この「闇」の部分があり、憎悪や怒りを惹起させる機構が備え付けられている。

 

 

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 「くま」の日常漫画でも「失敗」や「挫折」は頻繁に出てくる。

 たいていはうまくいっていなかったり、中途で断念したりする。

 漫画にするためにわざわざ失敗してんじゃないかってくらい100点満点の出来事が少ないように見える。

 

 ふつう「かわいい」世界を描くなら、多くは日常系ゆるふわ漫画みたいに、なにもドラマはなく、微笑みと木洩れ日がいつも差していて、あたたかくて、美少女で(もちろんイケメンで)、挫折も失敗もなく、もはやそういう概念すらなく、肯定だけが存在しているパターンだろう。

    もちろん、それが直接癒しになっている作品は多い。

    あえて比べるなら「コウペンちゃん」がその路線で成功を収めている。

 だけど、「自分ツッコミくま」はあえてフィクショナルな世界に恐怖や憎悪や憂鬱を持ち込むことで、「癒し」を与えることに成功している。

 

 もちろん、登場する「脅威」には結果的に丸く収まることが前提なのだが、それにしても「癒し」のキャラクターに憂鬱要素や恐怖要素のストーリーを持たせるのは冒険だとおもう。

 どうしてこういう構造になっているのだろうか?

 

 そこにはやはり「リアリティ」が関わっているのだろう。

 作者ナガノさんの持つ「リアリティ」だ。

 どんなに癒し系の可愛いキャラクターであっても、もちろん嫌なことはあるし、すべてが成功するわけではないないのだ、というリアリティ。

 美味しい食べ物のどこが美味しいのか「あるある」を交えて描写することと同じリアリティの洞察眼でもって、キャラクターたちも同じ舞台に立たされているのである。

 

 「くま」は私たち人間なのだ。私たちは「くま」なのだ。

 成功している人も裏では嫌な人間関係があったり、暗い過去がある。

 私たちには失敗の続く日がある。体調の悪い日がある。はっきりいって全部うまくいっていることなんて人生の2割もあれば良い方だとおもう。

 私たちには嫌な上司や先輩がいて、どうしても打ち解けられないクラスメイトがいて、憂鬱な課題があって、人の敷居に土足で入ってくる親戚がいて、借金の返済があったりする。

 

 「くま」たちは、そんな私たちと同じ土俵で生きている。

 私たちの経験している憂鬱や脅威や憎悪は、「くま」たちの世界では料理の失敗や、住居に侵入してくる未確認生物や、悪魔のような存在や、おばけに置き換えられているだけなのだ。

 

 そこにリアリティがあるからこそ、私たちは「くま」たちキャラクターに親近感を覚え、そこに自己を投影することで自分自身をも愛しい存在と認めることができるのではないだろうか。

 そして、可愛いキャラクター造形の愛しさが自分に結び付き、作品世界だけではなく身の回りのことに「愛しさ」と「癒し」を覚えることができるのだ。

 

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 なんかすごいアツく語っちまった。

 

 単に言いたいのは、「自分ツッコミくま」が大好きだってこと。