蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

作品における「リアリティ」の扱い方について〜村上春樹作品を例に〜

上春樹さんの小説に登場する人物にぜんぜんリアリティがなくて、それが受け入れ難いと言う人がよくいる。たまにいる。まれに見かける。

作品の主人公は大抵大学生か37歳くらいまでの男性で、小ざっぱりとした生活をしており、自分でも問題視できていない問題を心の底に抱え込み、なにかを喪失し、女とよく寝る。よく寝るというか、そういうことに無頓着でありそうながらも無理をしていなくて、女性関係に不便していない。

こんなひとはいるかもしれないけど、周りにたくさんいるかというとそんなことなく、むしろ珍しいタイプだ。

そこに「リアリティがない!」と怒り出す人がいる。

女とベッドを同じくしすぎる主人公にそう怒るのは心情としてまぁわからなくもないけど、なんか見当違いな怒りだなぁと思う。

 

それよりもリアリティがないのは、主人公や周りの人々があまり年齢相応の反応をしない点だ。

作中に登場する人物は子どもにしては落ち着き過ぎていたり、動揺というものを地の果てに置いてきたみたいに冷静な人々が多く、年齢の割に趣味への造詣がなんだか爺さんみたいな主人公だったりする(『騎士団長殺し』の主人公や最近の短編は特にそう)。

精神年齢が結局のところ作者にくっついてしまっているので、村上春樹さんが歳をとればとるほど主人公の内面は老化する。小説を読みながら会社の先輩とか街行く人々に思いを馳せても、こんな30代男性いねぇだろ、と思う。

もっと言ってしまえば、作品設定自体が現実にはあり得ない。

基本は普段の私たちが暮らすこの世界と同じ世界に作品を設定しているが、物語はそこに生まれるわずかな歪みみたいなものから異世界や「見えない世界」に繋がったり、不思議な生物が顕れる。

女性関係を持ちすぎる主人公にリアリティがないと批判をするなら、まずは羊男なんて存在しないこととか「イデア」と「メタファー」なんて幻覚であることとか、「やみくろ」も「カエルくん」も「ジョニー・ウォーカー」もまったくのフィクションであることを指摘した方がいい。(ジョニー・ウォーカーは存在したか)

こんな具合で、設定の段階からそもそも現実味がないので、女とよく寝るリアリティの無さには特段、いびつなものを感じないでいられる。

 

創作作品における「リアリティ」はそれ自体がテーマではないのなら、あくまでも作品に共感性と重みを持たせるための、ほんの道具にすぎないと私は考える。

道具としての「リアリティ」は俗っぽく言うなら読者に「あるある」を喚起させて登場人物の心情により接近できたり、作品世界と現実世界の接続を円滑にして「他人の物語」を「自分の物語」により近づける効果がある。言ってしまえばそれだけの表現技法なのだ。

作品において大事なのは、リアリティ云々ではなく、作品としての論理が通っているか、だ。

めちゃくちゃな展開に見えてもその裏では一本のスジが通っていればそれでいい。主人公や登場人物の行動が突飛に見えたりしても、考察の末に説明ができるような作品としての説得力を持っていればいい。

村上作品の登場人物たちに現実感は無いかもしれないけど、このスジは貫かれている。

たとえば旺盛なセックスについて著者はどこかのインタビュー(出典を思い出せない)で「セックスをしないと主人公が先へ進んでくれない」ような旨を答えていた。そして同じくらい、食べたり眠ったりしないと、つまり主人公が作品の中で生活をし力を蓄えてくれないと話が動き出さない、と言うのだ。だからセックスよりも多く、料理をしたり食べたり眠ったり夢を見る描写が多い。このスジを理解すれば性描写の多さにも納得感がある。スジが通っている。

 

小説の世界における「現実」は文字で書かれたことがすべてだ。

私たちはそれをフィクションとわかりながら全面信用しなければならず、その信用の担保として作品はスジを通す義務があると私は思う(作品テーマとしての「騙し」や「叙述トリック」を除いて)。

現実と作品世界では次元が異なるのでリアリティがなかったとしてもテクストのなかではそれが現実だから、自分が納得できるかできないかは本人次第で、うまく飲み込めなかったらそれも仕方がないと割り切ろう。私だってそういうことはよくある。なんかちげぇな、と違和感が残り続けて作品に入っていけなくなる。

だから読者にはある程度の「そういうもんだ」と思える器量を求められている。それはどのコンテンツにおいてもだ。

ミュージカルや歌舞伎が非現実であることは明白であるのに(日常生活で歌ったり踊ったり詠んだりしない)作品として消化できるのは、それが「そういうもんだ」と理解できているからだ。

「作者がこうしたいのだなぁ」と面白がって受け入れる器があるから私たちは作品を楽しめているし、作品を成立させていられるのだろう。

 

ある程度のリアリティはもちろん必要だとは思う。

それはもっと些細な部分のリアリティの描写だ。夏場に台所に立ってそうめんを茹でているときの暑さとか、大雪の降った日の靴の中で指が凍えて死にそうな感じとか、銃の構え方とか、そういう細かい描写に持たせるリアリティは大事で、そこを疎かにすると作品内でノイズになってくる。

あとは魔法を使えようが化け物が街を襲おうがドSな王子様と恋に落ちようが好きにすればいい。作者がやりたいように現実離れさせればいい。おっぱいは好きなだけ揺らせばいいし、自分の身長よりも大きい魚を平らげればいい。炎を吐けばいい。どいつもこいつも同性愛に目覚めればいい。

それをリアルに見せようとすると(あるいはリアルに見ようとすると)現実と作品世界の次元にひずみができておかしなことになるのだ。

 

だから、村上春樹作品は性描写が多くて登場人物にリアリティがない!という批判は見当違いだ。

もっと素直になるべきだったのだ。

性描写によってなんとなく不快な思いをしたのでこの作品は嫌いです!と真っ向から言ってくれた方が感想を素直に受け止められる。