人間は憎しみを求める生き物です。先生はそう言った。
戦争がなくならないのは、つまりそういうことなのです。
いじめがなくならないのは、要するにそういうことです。
誹謗中傷が常につきまとうのは、その根拠にほかなりません。
憎しみがなくならないのは、人間が弱い生き物だからです。
先生はそう言った。
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先生の言ったことを、以下に私なりに解釈してまとめる。
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「歴史」のはじまりは戦争のはじまりである。
戦争の記録を残し、勇姿の記憶を遺したことが、のちに「発見」されて繋ぎ合わされて「歴史」になった。
勝利の記録もさることながら、敗北の無念も同じ量記録され、そこには人々の悲しみと憤怒と憎しみが遺されている。
戦争に勝利があるもうひとつの側面には相手の敗北があり、敗北の垂れ流す憎悪が石板や木簡や粘土板に刻み込まれている。
少なくとも「歴史」が始まったときから、人間は憎悪を抱えている。
その憎悪を糧に、集団社会は団結する。
必ず次こそは、と思うわけだ。
そしてまた戦い、勝利し、あるいは敗北し、時には隷属させ、時には解体される。
その繰り返しだ。
歴史教育は前提から敗北している。愚かな歴史を繰り返さないために勉強する学生に、愚かな歴史は繰り返すということを数百ページにわたって教え込むのだから。
魔女狩り。
あるいは公開処刑。もしくは市中引き回し。
罪を着せられた人間に人々はよってたかって罵声を浴びせ、血塗れになる光景から目が離せなくなる。
鞭を打たれる当人とは関係の無いところにいる人間は、悲劇をいくらでも安っぽいエンターテイメントに変えることのできる残酷な生き物になる。
公開処刑の歴史は長く、ほんの百年前、いや、半世紀前まで、いや、今もなお、どこの世界でも行われている。
現在日本社会では巧妙にかたちを変えて公開処刑がおこなわれており、人々は自らの心の内の憎悪が刺激されていることに気付かずに、それを楽しんでいる。
お手持ちのスマートフォンで手ごろなSNSを見渡せばいくらでも目に入るだろう。
憎悪の流転、ひしめいている憎しみの渦。
それを見れば、人々は憎悪することを「楽しんでいる」ように見え、人間の営みとは憎悪のことではないかと疑いもなく思えてくるほどである。
人間は常に敵を探している。
自分の敵を探し、集団の敵を探し、国の敵を探している。
中国の仮想敵国がアメリカで、アメリカの仮想敵国がロシアで、韓国の仮想敵国が日本で、というように。戦争をする気もないのに「敵」を嗅ぎまわり憎悪を募らせている。
なぜこのようなことになっているのか?
なぜ根本的に、人間は憎悪を求めてしまうのか?
じつは、本当に求めているものは憎悪ではない、と考えられる。
人間は自分一人では「自分」というものを確立できない悲しい生き物だ。
他者がいなければ、自分というものを見出すことができない。他人と自分を比べるから、自分というものを掴んでいくのだ。他人は自分にとっての鏡とも言えるだろう。
内在している自分の断片をかき集めて自分を確立するには他人と比べていくことが必要不可欠なのだ。
同じことが社会にも言える。
他の社会と比べることで自分たちの社会を差別化して、よりまとまりを得ることができるものである。
そこで手っ取り早い手段が「憎悪」なのである。
相手を憎むことで、自己とは差別化し、自己を正当化させ、安易に自分というものを確立できる。
それは自分のみならず、社会全体の機構に言える。社会とは結局のところそういった人間たちの集まりにすぎないものだから。
また、憎悪は生理的な拒否反応とも言えるだろう。
肉体に毒が入ったら嘔吐をするのと同じことで、自己を揺るがされかねない出来事や人間に出会ったとき、人は憎しみを抱き言葉を吐き出すことで自分を防衛する。
再三言うが、これは社会とて同じことだ。
自己正当化により自分というものを揺るぎなくさせる心のメカニズムがそこにはあり、憎しめる相手を見つけることで自己に内在する断片や社会のまとまりを強化することができるのではないだろうか。
だから言えるのが、安易な憎悪に身を委ねて自己または社会にまとまりを得ようとするとき、その人や社会はとても弱っている。
パワーのいる愛情や赦しによる「まとまり」にはすすまないでいるこの状態は、弱っている証拠だ。
排他的になることでしか自分を、社会を確立できない弱い生き物。それが人間なのだ。
だから戦争はなくならないし、公開処刑は常日頃から身近で、いじめは永久になくならない。
さて、現況の世界情勢を見てみるとどうだろう。
とても弱っているように見える。
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先生の言うことが正しいのかどうかは私にはわからない。
人間のひとつの側面でしかないし、人間の抱けるすべての「憎しみ」に当てはまる構造ではないとおもう。
憎悪をコントロールすることが大切で、憎悪の向き先を変えることよりもむしろ、憎悪を勇気や希望や愛や情熱といったものに変換していくことで自分や社会を確立していくことができるのではないだろうか、と私はおもう。
うまくまとめられたとは言えないし、観念的な話で分かりにくく、言語化しにくかったが、人間のいち側面のちょっとした思い付きのような話として、ここに残しておくことにする。