雑念。
雑念が視界を邪魔する。
なにをしていても、集中しきるということは滅多になくて、雑念によって手が止まり作業は遅々として進まない。
読書をしていても雑念が片隅にあり、つまらない本だと雑念効果によって文字が右目から左目へ流れてしまい、同じページを15分くらい開いていることもある。同じ行を5回くらい読んでいるのに内容はまったく分からない。
このブログを書くときもそうで(小説を書くときもそうだ)、書きながら雑念に蝕まれて手が止まることしばしば。
昨日の夜はそれに嫌気が差して、200文字書いてブラウザを閉じた。
今も突然、天啓を享けて、「部屋中の窓を開けて換気をすべき」と思い立ち、窓を開けてレースカーテンに夜風を染み込ませている。書き終わってからでもよかったはずだ。
仕事中も雑念が止まらない。
むしろ雑念を想起するために仕事をしていると言っても過言ではないだろう。
「おっぱい(巨)は水に浮かぶが、それでは人体が水面に浮かぶために必要なカップ数はいくつであるか」本日のメインとなった雑念である。
浮力は物体の体積に比例するので……などと考え、浮力の公式を調べ、脂肪の密度と水の密度を比較し、いわゆるカップ数とはなんなのかがよくわからなくなり(会社のPCでカップ数を検索しているのがバレたらかなり問題になるとおもわれた)、気が付いたら今日やるべき仕事が全然片付いていなかった。
私は、これで銭をいただいておりやす。
まぁ、やることはやっているのだがね。
それにしても雑念が多いタイプで、よく言えば「創造性がある」とか「想像力がある」とかだけど、悪く言えば「集中力が無い」「考えがとりとめもない」となるので、言葉って不思議だ。
この、集中力の無さに、学生時分より苦しめられており、勉強に集中できたことなんぞ一度だってなく、15分やっては30分休むようなことをしていた。だから浪人したのだろう。
だいたい、つまらないことは集中できない。
勉強なんてつまらなくてしょうもない。
中学や高校の勉強を純粋に「知の欲求を満たすもの」として楽しんでいた人は現代日本で狂犬病にかかるよりも珍しいことだろう。だいたい楽しい理由は成績が上がっていくのがわかるとか、問題が解けて楽しい、ってことだ。だが、まったくそれだけではついに本当の意味で学習になっているとは言えない。知的な欲求があってこそ、ほんとうに学力は伸びるものだとおもう。それに必要なのは素質ではなく、先生の資質によるところが大きい。
論点をずらしてみたのだが、偉いので戻すことにする。
それにしたって集中力が無いのは自分のせいなのだから。先生のせいじゃない。
こうやって書かれたものを見ても、話題があちこちに逸れているところが目に付き、ああ、本当に集中力が無いのだなと実感する。
文章は誤魔化せない。書かれたものが現実なのだ。