蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

人間はブログを書く生き物です

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

ログを書くことに理由なんていらない。

歩くことに、食べることに、眠ることに、恋をすることに、呼吸をすることに理由がいらないのと同じように。

だいたいにおいてこういう類のものの「理由」はやっているうちにあとからできてくるものだ。はじめ書きだしたときはあくまでも衝動的だったはず。

「なんか、やってみっか」

くらいの気分だったと思う。カツ丼でも食うか、くらいのテンションだった。

たとえば、ある怒りを抱えているが周囲の人間には吐き出しようもなく、しかしながら世間に対して開陳したい人がいた場合、勢い任せに2分でブログを作り、文章を猛烈にしたためて即座に投稿、投稿後に読み返してみるとフォーマットが気になってきて「もうすこし暗いほうがいいかな」とか「文字の色を濃くしたいな」などと迷走しはじめたり、次の記事はどうしようかななどと考える、といったように、最初は衝動から走り出して、とにかくなにかを書いてネットに放流したい誰かに読んでほしい、というのがブログってもんじゃないか。形式や理由はあとからやってくる。

この人だったらブログ開設3年目くらいに、世間の怒りを代弁して世界へ訴えなきゃいけないって使命感に駆られたんです、なんて格好よいことをいうかもしれない。

日常ブログを書いている人も、いつか年老いたときにこの頃を懐かしく色鮮やかに思い出せるように書いているんです、なんて高尚なことをのたまうかもしれない。

それはそれで、理由だから、いい。あとからできた理由でも、理由は理由。楽しく続いているならそれでいいことだ。豊かだ。

でも最初は、最初の理由は、衝動。つまり理由なんて言葉はなかったはずだ。

 

基本的に、人間は話したがる生き物だというのが私の人間観。話すのが嫌いな人間というのはいないような気がしている。たとえ話す、じゃなくても何かしらの手段で「己」を伝えたがるのが人間という動物だ。

話しをするのが苦手という人は多くいるだろうけど、伝わりやすさとか面白さとか気にせずに話したいことを話していいよここでいくらでも聞いているから、といえばほとんどの人がいくらでも話すのではないかと思っている。

誰もがなにかを伝えたくて、なにかを放出したがっている。伝わってほしいし、影響してほしくある。それは生命的なひとつの欲求であるようにも思う。

ブログを、もといなにかを書くというのも、その欲求に近い。

私は普段は寡黙で、妹には「暗い男」、妻には「こんなに暗い人間と結婚するとは思わなかった」などといわれ、会社でも自分から率先して話すことはなく口をひらけば苦笑いを誘発させる、ほとんど苔類のような生活をしている。

だがこんな私にだって、伝えたいことは日々たくさんある。

日常のなかでさまざまなことを考え、思考し、感じ、自分の思いとしてまとめている。無口なぶん、人よりも多くものを考えている(悲しい理由だな)。

だがそれらを一方的に喋ってもつまらないし、私は話しをとめどなくするというのが苦手で失笑を買う性分だから、言いたいことがあっても飲み込んでしまう。頭の回転が遅く、うまく言葉にして話せない。

その助け舟となっているのがブログなのだ。

考えをまとめるのに時間をかけられるし、技巧的な文章なんて誰にも求められていない。書き終わるとスッキリするし、数年後に読んでみると意外な発見があったりして案外面白い。そう、ブログは伝えるだけじゃなくて、残すこともできるのだ。最高だと思う。

 

人はなにかを話したい、伝えたい動物で、ブログはその欲求のはけ口のひとつ。

私にも伝えたいことはたくさんあって、ブログがその手段を担ってくれている。

書きたい、伝えたい、読みたい。ただその欲求のために。

ブログを書くのはその欲求に従った衝動だ。

それが、わたしがブログを書く理由。後付けの。