蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

私たちの買うべき「布」

「私たちは布を買うべきよ」確信的に恋人は言った。穏やかではない雨が降っていた日だ。

「布を買って、この部屋の見栄えをさらに良くする義務が、私にはある」恋人は早口に強い語調でそう言った。

こういう場合、私はとりあえず自分の考えを置き、次のように答えなければならない。

「僕にも、その義務はある」

僕の返答に恋人は満足して、鼻をふんと鳴らした。

 

平和とは妥協・協力・力関係の正しい把握によって成り立ってる。

恋人とはいえ、まったくの他人と暮らすとはそういうことなのだ。愛していなきゃできない。

 

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なぜ布が必要なのか。

我が家のダイニング・キッチンには独立調理台が設置されており、それを境にしてキッチンとダイニングを分けているのだが、いかんせん調理台の裏側がダイニング側から丸見えになっていて、少々見栄えが悪いのである。

裏側にマガジンラックを置く計画があったのだが、調理台の大きさと合ったラックはこの世に存在せず、ならば作ろうとおもったがその技術も無く、ついでに言えば金もないのでラックは諦めた。

どうにかして調理台裏の配線を隠したい。コード穴から白いコードが垂れ流しになり、木の板にぼつぼつ穴が開いていて、なんていうか家具である以前に「素材」であることを意識させられる。惨めな気持ちにはならないけど、それに近い雑然とした気分に陥る。見ちゃいけない部分を見ている気がしてくる。たとえば冷蔵庫の裏とかカブト虫の腹側みたいに。

「もう、隠すには、布しかないの」恋人はそう言った。

 

布を購入し、画鋲で止めるしかない。できるだけオシャレな画鋲でとめるしかない。かわいい布で部屋を彩るしかない。──我々の稚拙な頭はそういう結論に達し、布を購入すると決めた。

 

だけど、たて90cm×よこ70cmのおよそ6300平方センチメートルの巨大な布なんてどこで買えばいいのだろう?

そんな疑問を解決するために、この世には「布屋」というものがある。

 

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布屋には本当に布ばかりが陳列されていて、ごん太(ぶと)の布・ロールが棚にずらりと並び、値段がメートル単位で表示されていた。メートルあたり1000円しないくらいだったが、それが安いのか高いのかもわからない。

30分くらいかけてダイニングに飾る(?)にふさわしい布を選んだ。帆布みたいな布地の感じのいい黄色のチェック柄だ。

 

裁断カウンターで勝手がわからず、かなり手間取ってしまった。

「90センチで長さを取るか、それとも70センチで取るか」と係の女性は訊いてきた。どちらでもよかった。布幅は100センチくらいあったし、長さは70センチで取った方が安くなるから70センチで取るべきで底を迷う必要性はないと思われたが、我々は布のトーシロで、都合がよくて都合が悪いのかまったくわからない。90センチで取るべきなにか理由があるのか?とそう訊ね返すと、女性は「柄の向きが変る」と言った。

だが、チェック柄は左右上下対象の構造だからどう切ったって問題はないはずである。しかし女性は、これは大切な問題ですと言わんばかりの眼差しで見つめてきた。

われわれの頭がひじょうに悪くて状況を理解できていないかもしれない。挫折ばかりの人生なので自己肯定感が低く、すぐに揺らいで自分の考慮を捨ててしまう。

「えと、たとえば70センチで切ったらどうなるのでしょう?」と、ついに訊いた。

「すると、70センチの布のお値段になりますね」

「それだけですか?」

「?」

「えと、つまり、柄の問題は……」

「チェック柄ですので、どう切っても問題ありませんね」

なんだよ。

なんなんだ、と思いながら70センチの値段で大きな布を購入した。

 

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あとはつまらない話。

 

布をさまざまに工夫して調理台の裏側に設置したものの、部屋は急に野暮ったくなり、なんだか田舎のおばあちゃンちでこういうのあったなって郷愁ただよう部屋と化してしまった。

見栄えどころの話じゃない。昭和42年、て感じがした。

合う色合いのものを選んだはずなのに絶妙に部屋から浮いていて、なにかを隠しているというよりはむしろこの布をなにかで隠した方がいいくらいだった。はっきり言って布は無い方が良かった。

結局布は取り外し、どうにも使いようもないので、折り畳み、押し入れにしまった。

なにもかもが最初から間違えていたような出来事だった。

 

 

今でも調理台の裏は丸見えで、赤裸々である。最近はかえってそこが愛しく見えるように錯覚し始めたが、錯覚は錯覚だ。

我が家の押し入れには使いどころのない大きな布が闇の中で、日の目を見るときを今か今かと待ちわびている。

枕カバーにでもしてやろうかしら。

 

 

布を買った週はやたらと雨が降り、気温がぐんと下がった。秋である。