蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

芸術はエンターテイメントだ

画の楽しみ方っていろいろある。

美術館に行くか、画集を眺めるか、美術館のデーターベースからオンラインで鑑賞するか、とにかく方法はたくさんある。

絵画のみならずあらゆる芸術作品にはさまざまな鑑賞手段があり、いくつかの方法で触れることができる。

だから問題は、心のことになる。

どうやって作品に向き合うか、どのように楽しむか、なにを楽しめばいいのか。

そこを掴まないとどの芸術だって興をそそるものにはなりえないだろう。

 

作品を楽しむにはまず根底となる知識が必要だ。

誰が描いたか、いつ作曲されたか、どのような時代背景があって書かれた物語なのか、などなど。

そういうのがないと作品は楽しむことはできない。

なんなら最低限の知識だけでは楽しめない場合もあるのだ。

知識に基づく「理解」がなぜ必要なのかというと、作品を自己の内に取り込み、自己の世界の一部にするための梯として、理解を超越した先にある「了解」つまり「エウレカ」によって作品と一体となり魂の救済を目的としているからである。

 

こういうことを言ってくる美術家気取りは片っ端から殴ってやるので安心してください。

 

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知識なんてなくても芸術は充分楽しめる。

学問的な高尚ももちろんあるけれど、そんなものがなくったって、楽しめる。

なぜなら芸術とは本来、人間の自然の営みの中から生まれてきた魂のかたちそのものであって、人間のエネルギーそのものの自然体であり、本能的に理解できる芸術は知識などなくても理解できるはずだからである。本能的な理解、「肚でわかる」ということをここでは「了解」と呼びたい。

私たちは本来備わった自然の本能でもって、芸術を了解できる。

 

音楽がいちばんわかりやすい。

音が鳴って、自分にとって気持ちよければ体が動き、顔はほころび、ときには涙さえ流れる。

洋楽の歌詞なんて知らないけど、本能的に「格好良い」と了解したらロックンロールに夢中になれる。インド音楽がわけのわからない言葉で郷愁の念を歌いあげていたとしても、魂でその郷愁を了解できる。ホーミーを聴けば、草原の風に思いを馳せる。

前提の知識なんてなくても、音楽は魂で了解できて、心を揺さぶることができる。

プリミティブな、肉体に訴えかける芸術であるからだ。

 

絵画はどうだろう。

西洋絵画だと宗教の知識が必要になる、と思われがちだけど、そんなことはない。

観て、美しくて、心が震えたらそれでいいのだ。

おお、と感嘆できたらそれでいい。なにも難しいことじゃない。

美術館で飾られている絵画には相応の価値があるけれど、すべてが自分の心に響くかというとそういうわけじゃないし、すべてを理解しなければ、と躍起になって肩に力を入れても作品を楽しめているとは言えない。

パッと見て、ああ、いいなぁ、と思えたらしばらく立ち止まって眺めればいいし、なにも思うところが無かったら立ち去ればいい。なにも思えなくてもしばらく眺めているとだんだん「好きかも」となる作品だってあるから、自分に向き合うように作品を鑑賞してみてもおもしろい。

現代美術はコンセプトが大事で、作品に込められた思想を理解するところからはじまる、みたいな堅苦しくてわけのわからない哲学があるようにも見えるけど、そんなことはない。

なんか物凄い作品を見て、すげぇ!とか、おもしろい!って感動できればいいのだ。現に最近は体験型のアートが増えていて、楽しめることが前提となってきているような気もする。従来の堅苦しい高級な観念へのカウンターなのかもしれない。

美術だって音楽のように、プリミティブな鑑賞が可能なのだ。

 

文学も単純だ。

読んで、おもしろければそれでいいじゃないか。

よくわかんねーっておもって、つまらないと感じたらそれは自分の感想だからそれでいいとおもう。

文章がきれいだと感じたら、それでいいとおもう。難しい言葉だな、とおもえたらそれでいいのだ。

 

 

触れたまま、感じたままで、いい。「楽しもう」とすらおもわなくていい。なすがままに、触れたまま、感じたままでいいのだ。

芸術の楽しみ方に善いも悪いもない。

感じたままでそれが自分自身だ。

 

だけどひとつ言っておきたい。

知識があることによって、より多くの視点を持って作品を楽しむことができる。

頭でっかちになってプリミティブさを失ったら元も子もないけど、エンターテイメントとして芸術を楽しむうえで、知識があるとより多角的に楽しむことができる。

教養ってそういうもんだとおもう。