蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「昔々あるところに」の力

々あるところに、って昔々の物語の書きはじめ、現代のわれわれからしたら じゃあどれだけ昔なんだよってなる。

『今昔物語』や『宇治拾遺物語』は「今は昔~」という書き出しで始まるが、現代人にしたら「いやあんたらの時代がそもそも大昔なんですけどね」とツッコミたくなる。

当たり前だけど編纂された当時は、当時こそが「現代」だったのだ。

 

「昔々あるところに」の書き出しにはどんな効果があるのだろう?

ここからは私の所感になる。(これまでもずっと個人的な意見だった)

 

誰も覚えちゃいないくらい昔のことにして語ってみると、曖昧なくらい「昔々」だからこそちょっと信憑性が生まれる気がする。

物語中であり得ないことが起こっていても「まぁそのくらい昔のことならそういう不思議なこともあったろうよ」なんて妙に納得したりする。身近な人に話聞かされるとさらに信憑性は増すかもしれない。

この効果とは逆説的な二面性の効果として、「昔々あるところに」で語りはじめるところに「いまからお話しするのはフィクションです」というニュアンスが含まれている点も指摘したい。

これにより聞き手は「物語を聞く」姿勢になれるわけだ。

 

この二つの効果によって聞き手は「信憑性のあるフィクション」を楽しむのである。

 

これは不思議なことではなくて、現代でも通用している「物語」の暗黙の了解だ。

小説や映画を観るとき、作り手も受け手も「これはフィクションだよ」とわかったうえで物語中の信憑性や真実性を受け止めている。

フィクションだとわかったうえで、作中の出来事はすべて真実(事実)と受け止めている。

小説だったら文字に起こしたことすべてが作品の中の真実でなければならない。映像であればフィルムに写した動作ひとつひとつが作中の事実でなければならない。

だから、作者は作品のなかで、嘘をつけない。ひたすら真摯に、作中の真実に向き合わねばならない。

フィクションは嘘を書いているのに、作品の中で起こることのすべては真実でなければならないのだ。そこが面白いところでもある。

 

それを踏まえたうえで私たちは作品を鑑賞し、作り手は作り続ける。

ある意味それは「演じている」。嘘に興じている、と言えるだろう。

 

世の中にはフィクションが苦手な人がいる。

私の母がそうなのだが、彼女曰く「嘘をつかれてるのが嫌」らしい。「ずっと騙されてる」のが嫌なのだと。

嘘に興じることのできない人なのだ。

私はフィクションが大好きだけど、物語に入り込めない人の気持ちも少しわかる。時々フィクションがうるさいときがあるのだ。そういうときは新書を読んだりドキュメンタリーを見たりする。ノンフィクションは演じる必要がなくて楽だ。

だから嘘に乗れない人を批判するつもりはない。

物語を摂取するにはエネルギーが必要なのである。

 

「昔々あるところに」は「今から物語を始めるよ」宣言であって、そこには物語を飲み込むための姿勢を作りなさい、という注意喚起の意があるのではないだろうか。

嘘を嘘だと宣言することで「物語」に昇華させ、嘘に興じる準備を促している。

 

宣言しなければただの嘘つきになってしまう。とくに口頭伝承のものだと嘘だと言われなければ簡単に話の流れに乗せられてしまうだろう。突飛な展開でもなければ見抜くことは難しい。

親や親族や近所の大人がしれっと話す言葉はそれだけでどんな話も真実性を帯びていくため、だからこそ物語の礼儀として、暗黙の了解の部分を「昔々あるところに」で明言し、これは物語です・嘘なんです、と提示しているわけだ。

 

「昔々あるところに」は、物語を楽しむ人々のための やさしさだったのだなぁ。

 

 

 

それを踏まえてこのブログを読んでみると、まぁ不親切。

名言もせずしれっと嘘を織り交ぜていくから、最近察した人々がこのブログから離れていく。正しい。