蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「ばか」よりも「あほ」のほうが優しい

が言っていたのか忘れてしまったけど、「ばか」よりも「あほ」の方が言葉がやわらかい気がして、「ばか」よりも「あほ」のほうが愛らしさがあって、「ばか」は突き放すような感じがするけれど、「あほ」は笑って許してくれるような温かさがある。

それを聞いてから、意識的に「あほ」を使おうとしているのだけど、生まれた環境のせいなのだろう、「ばか」が先に出てくる。

関西と関東で違うのかもしれない。

関西人は「あほ」を、関東人は「ばか」をよく使っている気がする。

あくまで気がするだけで、根拠はない。

 

言葉のニュアンスって不思議だ。

同じ意味なのに音が違うだけで雰囲気が変わる。丸くなったり、とげとげしくなったり、かたくなったり、やわらかくなったり、あたたかくなったり、冷たくなったりする。

「じゃがいも」と「馬鈴薯(ばれいしょ)」は同じものだけど、同じものとは思えない。

馬鈴薯は異界の毒花、あるいは古代中国の偉人みたいな響きがある。

「じゃがいも」「ジャガイモ」と表記を変えるだけでも雰囲気が変わる。

馬鈴薯にしても「バレイショ」にしたらアセロラジュースを盥(たらい)からこぼしたときの音みたいだし「バレイショ」にしたらおっさんの小さいくしゃみに見えてくる。

言葉のまとう雰囲気って不思議だ。

 

音や形にまつわる集団的無意識、本能的な感覚がおそらく人間にはある。

「愛してる」って中国語だと「ウォー・アイ・ニー」朝鮮語だと「サランヘヨ」フランス語だと「ジュテーム」スペイン語だと「テ・アモ」というように、なんだか「愛してる」ってニュアンスの響きがある気がする。優しくて涙が出るように熱い響きがある。ただし、ドイツ語の「イッヒ・リーベ・ディヒ」は例外かもしれないけど。

原始的な言葉って、音の持つ雰囲気によって意味が付けられたりするのだろう。猿の鳴き声を研究すれば、私たちの中に眠る、音への原始的なニュアンスみたいなものを理解する一助になるかもしれないし、そうやって分析ができたら言葉の成り立ちをもっと深いところで、動物的なこととして研究できるかもしれない。

言葉はコミュニケーションツールでしかなく、元を辿れば鳴き声であったはずだ。

人類の一番最初の言葉はなんだったのだろう。

そういったことも予測ができるかもしれない。

 

言葉の誤用ってよくある。

そう言った誤用は、誰かが間違って使ったことで意味が定着してしまうのだろうけど、その最初の間違いはどこからどうやってやってくるのだろう?

案外、音に原因があるんじゃないかと考えられる。

「姑息(こそく)」は本来「一時しのぎ」という意味だが今では「卑怯」といった意味で使われる。

誤用されていてこう言ってしまうのもアレなんだけど、「卑怯」の意味のほうが「こそく」という音にはしっくりくる。

「なしくずし」も誤用の「徐々にすすめていく」の方がそれっぽいし、「おもむろに」も「唐突に」という誤用の方が適している感じがする。

誤用の原因として「漢字」によるミスリード以外に、「音」による無意識化の操作も原因として推していきたいところだ。

表音の言葉だとそれは如実に現れるかもしれない。

でも結局、感覚的なことだから証明は難しそうだな。

 

 

 

 

「うんこ」よりも「うんち」の方がPOPだ。