蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

Sigur Rós(シガーロス)のライブに行ってきた

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のバンドと出会ったのは17歳の冬だった。

当時とにかく音楽に飢えていた私は、しかしながら人気のあるバンドになんて興味なくて、タワレコの500円〜1000円のワゴンを覗いてジャケ買いし、「自分だけのバンド」を探すのにハマっていた。

そこでたしか800円くらい買ったのがSigur Rós(シガーロス)の『Með suð í eyrum við spilum endalaust』だ。今なおなんて読むのかわからない。

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裸の人たちが車道を横断しているジャケット。これだけで気に入ったし、内容はもっと気に入るものだった。私は一発で彼らのファンになった。

それが10年くらい前のこと。

思えば長いこと追い続けてきたバンドだ。

ポストロックというジャンルにくくってしまってよいのかはわからないけど、とにかくそのサウンドも、音楽も、唯一無二の独自性を保ち続けていて、なにかひとつのジャンルを超えて、世界を構築している。その世界に私は10年間浸り続けてきた。

 

この10年の間に何度か来日をしていたみたいだけど、コロナもあったりメンバーの脱退もあって2017年以降は来日ライブがなかったのだが、この度5年ぶりに来日公演が実現した。

学生時代と違い、自由も金もある(金はない)のですぐさま飛びついてチケットを購入、10年も追ってきたのに初めてライブに行ける。満願だ。

彼らの活動するアイスランドに行くのにも莫大な金がかかるし、アイスランド語わからないし、どうしようもなかったので本当に来てくれて嬉しい。

でもSigurRosのファンなんてそんなにいるのかな、と不安だった。

だってファンになってから私の周囲でSigurRos聴いてる人に出会ったことが無くて、そりゃあタワレコのワゴンセールに出されていて掘り出し物として「見つけた」くらいだし知っている人がいなくて不思議ではなかったのだけれど。

で、広めるためにCDを貸して「いいね」とは言ってくれてもハマる人はおらず、私は10年間孤独にSigurRosの良さを噛みしめ、誰とも同調できず、新譜の興奮を共有できずに過ごしてきた。

ミュージックビデオの考察とかして盛り上がりたかった。

そんなんだからきっと客席にも空きが目立っているかもしれないなぁと不安ながらも、「私だけのバンド」の公演を楽しみに待つ日々を送った。

 

当日。

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仕事終わりに りんかい線国際展示場駅へ向かった。

なんかやたら人が多い。車内からして混雑している。

ビリー・アイリッシュの公演も近くでやっているらしくてそのファンだろうなと寂しく思っていたが、会場に着いて、違うことがわかった。

全員SigurRosのファンだった。

会場もめちゃくちゃ大きい音楽ホールで、客席がぎっしり詰まっている。

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(最後尾に近い席だった)

目を疑った。

ファン層も老若男女、陰キャ陽キャも関係なく盛り上がっていて、独りで来ている人もいれば恋人や夫婦、友だち同士、奥様同士などさまざま。ぜんぶの人種がいる。

どうせいてもサブカルかぶれみたいな独り身のイタイ奴しかいねぇだろうなと思っていたのに、ぜんぜんちがった。私のひどい偏見だった。

私の10年間の孤独はなんだったんだ。

 

そして開演。

ステージ上のメンバーなんてぜんぜん見えないのだけど、奏でる音は確かに届く。

ピアノのわずかなグルーブ感がそこで本人たちが演奏している震えとなって響き、CDとは違う、今ここにある生命を感じさせる。

バンドとして成熟したサウンドというものがある。

スピッツくるりのライブに行ったときにもその演奏力の高さに驚かされたが、SigurRosもそうとう上手くて度肝を抜かされた。

エレキギターをヴァイオリンの弓で弾く「ボウイング奏法」という珍しい特殊奏法を駆使して、ノイズをメロディに調和する伴奏あるいは通奏音として成立させ、そこに声をのせるすごさ。

ベースがこんなにも低い音を出していたのかってくらいほとんど衝撃や振動に近い音程に設定されていて、ヨンシー(Vo)の天使のような歌声を際立たせると同時に、バンドの「ロック」な部分を根底から支える。

ドラムスがまた非常に効果的な使い方で、なんていうか、リズムってなんて素敵な音楽の要素なのだろうと再認識させられた。

さらにキーボードも加わり、リズムに心地よい揺らぎが生まれバンドひとつとして音の塊となる。それはひどく繊細な構築のもとに成り立っており、ある時には錦繍を思わせ、ある時には大聖堂を思わせる。

完成された音世界。バンドとしての完成度の高さ。

低音が内臓を揺さぶる。

地の底、あるいは遠い空から響く、世界の終りの音。スローな曲が多いけど破壊的ですらある。

スモークがこれでもかと焚かれライトが差す光の道が神々しい。

耳を裂くようなギターのノイズ的和音。キーボードの一貫したリフレイン。天界から降り注いでくるような美しく力強い声。鼓動を思わせるリズム。

神話のはじまりがあるのならこんな感じなのかもしれない。

カオスで荘厳で生々しく、美しい。

言葉が生まれるよりも前の世界。

母親の子宮の中でうずくまっていた記憶はないけれど、目を瞑ればこの音楽はそれなんじゃないかと思える。

10年間SigurRosを聴いているけど、彼らがなにを歌っているのか私は知らない。アイスランド語を知らない。

でもなんの問題もなかった。

サウンドが、メロディが、切実なまでの音楽的世界観が、この心を揺さぶるからだ。

この会場にいる誰もがそうだと思う。

アイスランド語を理解しているひとは極めて少ないだろう。

でもみんな、言語を越えた音楽によって心揺さぶられてここにいるのだ。

私たちは孤独じゃないのだ。

 

途中休憩が挟まれて、ライブは結局22時までの3時間に及んだ。

「Festival」という曲が好きだったので、演奏してくれて嬉しかった。

youtu.be

前半の最小限の音で歌われるなにか祈りとか悼みにも似た祝福からの、後半にかけてのベースとドラムスのうねりによる祝祭のイメージ、巨大な光の力に飛び込んだかのような勢いと力強さに会場でも大きな盛り上がりを見せた。

私は泣いていた。隣の席のおばさんも目頭を押さえていた。

感情がたかぶってわけわかんなくなる。

照明が滲んでステージは遠い銀河の光みたいに瞬く。

宇宙の彼方から生命を祝福される。

一方で地獄のような力でもって破壊される。

破壊と言うよりも、殻を破るためのスーパーノヴァ的な力だ。

そして最後にやって来る慈愛。

ああ。

生きててよかった。

生きていようと思った。

 

スタンディングオベーションでの拍手は鳴りやまず、メンバーが何度もステージ上で頭を下げる。言葉で説明するほどに現実から離れて行ってしまうような、とても尊くて熱い感情が会場をひとつにしていた。

私が唯一知っているアイスランド語「Takk」を叫びたかった。

ありがとう、と。

 

私は何度でもSigurRosを見るべきだし、見に行くべきなのだ。

たとえアイスランドに行ってでも。

ほんとうに良かった。

ほんとうに良かった。