蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

西暦生まれ昭和育ち

和の人って、自分の誕生年を「昭和〇〇年生まれ」と和暦で言う場合が多い気がする。

「昭和の人」といってもさまざまいるから一概には言えないのだけど、高齢者であればあるほど「和暦率」は高い気がする。

なぜだろうか?

 

 

平成生まれの人で、「平成4年生まれです」とわざわざ和暦を言う人はあまり見かけなく、おおよそ西暦で答えるほうがメジャーだ。(たぶん)

平成世代は単に「平成生まれ」と称し、中高年を「昭和生まれ」と呼んでいて、誕生年は西暦で言ってくれた方がわかりやすい。それにもかかわらず昭和生まれは「昭和34年生まれ」とまたわかりにくく年を言う。

和暦だといつの年のことなのか出来事と結びつきにくくて、なんか違う世界の話のような気さえする。

昭和20年よりも1945年の方がわかりやすいし、平成12年よりも2000年のほうが出来事と結びつきやすい。2011年を平成23年と伝えるテレビに覚えがない。

昭和の人も、平成以降の出来事については西暦で認識していることが多い気がして、特に平成7年以降、1995年以降はほとんど西暦換算、のような気がする。

私は1995年生まれなので年の把握は西暦が主で、和暦で時代を捉えておらず、これは自分でも引くのだけど、ぶっちゃけ平成23年平成27年の違いすらあまりよくわかっていない。平成25年って3年連続で来ていた気すらある。

だから「昭和〇〇年」と聞くと「西暦何年やねん」と関西人でもないのに関西弁でツッコミたくなり、「ほな、調べたろ」と似非関西弁とGoogleを駆使して音声検索「オゥケィ、ぐーぐる。和暦はんと 西暦はん、 どっちがどっちやねん。ナァ、昭和52年は西暦何年やねん!!!!!」

『すみません、よくわかりません』

似非関西弁でもなんでもない言葉を使うからこういうことになって、人工知能にも見放された私は淀川に投身したくなる。

このように(どのように?)、和暦で言われると「調べる」ひと手間を加えることになって面倒くさい。和暦にいくつか数字を足すと西暦になるって何度も調べたのだけどその数字がいくつだったか毎度忘れてしまう。計算するのも面倒くさい。

和暦に固執する人がいると、アメリカが独自の単位で、大きさにはインチ、距離にはフィート、温度には華氏を使って個性を出そうとしている無様さを思い出す。厄介なこだわりだ。

 

どうしてわざわざ和暦で言うのか。なぜ平成生まれは西暦で言うのか。令和生まれはこれからどうなるのか。

昭和まで、それこそアメリカの単位法みたいに、日本では和暦の方がメジャだったのかもしれない。そして平成以降、とくに世紀末と2000年のミレニアム祝いがきっかけとなって、西暦の概念が生活に深く根差したのではないか?

21世紀に入ってから日本でワールドカップもあったし、なにかと西暦を意識する機会が多かったのではないだろうか。

それまでは和暦で対応できていたのが、西暦に変換しないと通じなくなる物事が多くなった、と考えられる。グローバリズムにメディアが対応した結果?

 

 

 

ここまで自分の「気がする」という甘い認識だけで話を進めているのでぜんぜん間違っているかもしれない。

なにも調べずに書いているから、どうか、大目に見てほしい。甘い目で見てほしい。ゆとりなので……。