蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

マイ・宗教の時代

SNS ─── 特にFacebookやインスタグラムを見ていると、みんなきらびやかで健やかで栄光の毎日を送っていてしかも輝かしい未来がつねに約束されているようなそぶりなので、すごいものだなぁとおもうけど、あれは嘘だ。

 

いや、嘘じゃないんだ。

 

嘘ではないのだけど、全部でもないんだ。

 

良く言えば日常のなにげない小さな幸せを切り取ったもので、悪く言えば輝かしい部分「だけ」を抽出したにすぎず、カメラロールは加工前の抽出された幸福が乱雑に張り付けられたスクラップ・ブックにすぎない。あるいは遠目に見ればコラージュだ。そこまで言う?「良く言えば」はあとで悪口を言うために存在する枕詞だ。

だけど、幸せの抽出のなにが悪いのだろう?

なにも悪くない。

みんなそうなんだ。私だってそんなもんだ。

 

誰かに見せるための(見られたいための)自分を探している。

SNSに切り取られたプライベートは誰かに見られることを前提としているから基本的に「飾り」がついていて(Twitterはちょっと違う気がする)、たしかに本当のあなたの一部分ではあるのだけど、ほんの一部分でしかないのだ。

当たり前だ。

当たり前なのだ。

全部を載せられないし、嫌なことをわざわざ書いて読者に嫌な思いをさせたいわけじゃないし、不特定多数の瞳に映るのなら飾ることは文化的な人間として当たり前のことだとおもう。

 

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ただなんて言うか、SNSに載せるために作られていく「理想の自分」や、つくられた言葉やセンスは、本来の自分とはかけ離れているときがあって、仮想空間で得られる快楽にすがる私たちは、なにか、仮想の自分を信奉している、宗教にハマっているみたいだ。

自分だけの神様、自分だけの信奉、自分だけのルール、自分だけの喜捨

自分の自分による自分のための宗教。

令和、マイ・宗教の時代が必ず来る。もう来てる。

うまくいけば人気者になって、本当の宗教みたいに人を集めて神さまみたいになれるかもしれない。

 

まぁ、宗教、は言い過ぎかもしれない。

 

ただ見方によっては、というお話。

 

宗教にあまり頼らないことが多い日本人は、いつの時代もすがりつきたくなる「救い」を求めて、古き時代のロマのように彷徨っているように見える。

90年代のオカルトブームとか、00年代の「癒し」ブーム(アロマとか)、ゆるキャラやアイドルブーム、日常系アニメ ────。

非現実という「癒し」にすがりついているような……。

ブームを宗教と解することは短絡的に過ぎるけど、一連の非日常を求める現実からの逃避のムーブメントは少なくとも私の生まれた1995年以降はいつだって身近にあるような気がする。

それだけ現実は厳しいし、本当のところ、宗教的な救いを求めているのかもしれない。

 

 

信じるものが欲しい、裏切られないものがほしい、成功の約束された努力をしたい、疲れないでいたい、自分は自分でいたい、とびきりの肯定感に包まれたい、でなければ死にたい、誰かのせいにしたい、誰のせいでもなく幸せでいたい、愛したい、愛されたい、誰かのせいでもなく愛したい。