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くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

西村賢太『誰もいない文学館』感想

西村賢太著『誰もいない文学館』を読んだ。

昨年の6月に発行された本、つまり氏が急逝されてからの刊行物ということになる。

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西村さんの著作は一貫して私小説であり、そうでなければ「一私小説書きの日乗」をはじめとするエッセイが主たるものだ。この『誰もいない文学館』はエッセイとくくっていいだろう。

西村さんのハイパーマニアックな蔵書を紹介する内容となっている。

 

私小説は普通の小説と違い、主人公は著者をモデルとした人物として設定される。

そのため主人公の行動や言動は作者自身のものであると解釈されがちだが、そこがエッセイと違うところで、あくまで「小説」の枠組みであるから、文脈とか構成とか、文章としての次元があくまでも「虚構」の体裁をとっており、主人公はたしかに作者の姿を反映したものではあるけれども、100パーセントの作者ではないのだ。

主人公の目は作者の目ではなく、作者は一歩引いたところから小説の主人公としての自分を見つめているのだ。

そのため「私小説」といえどもあくまで書いているのは「作中における真実」でしかなく、現実の「事実」と混同されるべきではない。

 

西村賢太さんの人となりを知りたくて氏の作品を読むのは間違ってはいないが、上述の理由から、それが直接的な手段であるとも言い難い。

直接的に「事実」を知りたければエッセイや対談から読みほどくしかないわけで、西村賢太さんのファンである私にとって、エッセイ作品はたいへんありがたいものだ。

おもしろいかどうかはともかく、この一冊では彼がどういったものに影響を受け、なにを考えて本を蒐集し、どういった作品を読んでなにを思ったか、そしてどういった経緯で手に入れるに至ったかその「事実」をうかがい知れる貴重な一冊であり、興味深いことは確かだった。

藤澤淸造や田中英光から人生が変わるほどの影響を受けていることは詳らかなのだけど、それ以外になにを読んでいたか、なにを集めていたか、プライベートな部分は両者ほどには明らかにされていなかったが、この一冊でその一部分を垣間見れる。

西村さんの作品を読んでいれば「あ、この作品で買ってた本ってこれか」みたいなリンクする部分もあって、おもしろい。

 

作品や『一私小説書きの日乗』とは異なって、エッセイになると文体の冷静さが顕著になる印象だった。作品紹介における年代や著者名、関係者の出自についてきっちり書かれていることからも、なんていうか、神経質なんだろうな、と思った。根が徹底主義者にしてできてそうだ。

興味深かったのはよく小説内に出てくる「根がスタイリストにできている」という「スタイリスト」の真意がわかったことだ。なるほど、でもこれはわからないでしょう、と当時この表現を批評された文学者に同情もしたくなる。

また、初版本・古本の魅力についても語られており、職場が神保町の古書街に近い私はふとすれば蒐集家になりかねないので気を付けようと思った。発行された当時の、作者自身も触れた本の空気感というものを味わえる初版本は、なるほど読書の楽しみをより一層深めてくれそうだ。

 

西村さん自身のことをもっと読みたかった私からすればすこし物足りなさも覚えたが、ファンならば一読してもいいだろう。

紹介されていた本の中には気になる著者もいたので、チェックしておこうと思う。